・・・ 突然声をかけたのは首席教官の粟野さんである。粟野さんは五十を越しているであろう。色の黒い、近眼鏡をかけた、幾分か猫背の紳士である。由来保吉の勤めている海軍の学校の教官は時代を超越した紺サアジ以外に、いかなる背広をも着たことはない。粟野・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・格別勉強するとも見えざれども、成績は常に首席なる上、仏蘭西語だの羅甸語だの、いろいろのものを修業しいたり。それから休日には植物園などへ、水彩画の写生に出かけしものなり。僕もその御伴を仰せつかり、彼の写生する傍らに半日本を読みし事も少からず。・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・本当ですよ。私だって、このころは、大いに勉強したものだ。この先生にばかりでなく、他の二、三の先生にもほめられた。本当ですよ。首席になってやろうと思って努力したが、到底だめだった。この、三列目の端に立っている小柄な生徒、この生徒だけには、どう・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・ 私は小学校のときも、中学校のときも、クラスの首席であった。高等学校へはいったら、三番に落ちた。私はわざと手段を講じてクラスの最下位にまで落ちた。大学へはいり、フランス語が下手で、屈辱の予感からほとんど学校へ出なかった。文学に於いても、・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・受持の時間に竹村君が教場へはいるときに首席にいる生徒が「気を付け」「礼」と号令をすると生徒一同起立して恭しくお辞儀をする。そんな事からが妙に厭であった。そして自分にも碌に分らないような事をいい加減に教えていると、次第々々に自分が墮落して行く・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・過ぐる日の饗筵に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩む時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高に罵る声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆる狼の……ほざくは」と手にしたる盃を地に抛って、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・私共のクラスでは、大島義脩君が首席であった。しかしそれでも後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩本禎君であったと思う。同君は上にいったように、その頃からギリシャ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しずつソクラテス以前の哲学・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・久野さんに習っていて、のち上野のピアノ科に入り、ずっと首席であった一人の令嬢が、お婿さんをとるためにどうしても音楽をすてて学校をももう一年というところでやめなければならないということを、久野さん自身、残念だが仕方がないこととして話されるのを・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・中学は首席で柔道は初段、数学の検定を四年のときにとった彼は、すぐまた一高の理科に入学した。二年のとき数学上の意見の違いで教師と争い退校させられてから、徴用でラバァウルの方へやられた。そして、ふたたび帰って帝大に入学したが、その入学には彼の才・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、ただエルリングはもう二十五年ばかりもこの家にいるのだというだけの事を話した。ひどく尊敬しているらしい口調で話して、その外の事は言わずにしまった。丁度親・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫