・・・おとよさんは少し化粧をしたと見え、えもいわれないよい香りがする。平生白い顔が夜目に見るせいか、匂いのかたまりかと思われるほど美しい。かすかにおとよさんの呼吸の音の聞き取れた時、省作はなんだかにわかに腹のどこかへ焼金を刺されたようにじりじりっ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ そこに大きなテーブルが置いてあって、水晶で造ったかと思われるようなびんには、燃えるような真っ赤なチューリップの花や、香りの高い、白いばらの花などがいけてありました。テーブルに向かって、ひげの白いじいさんが安楽いすに腰かけています。かた・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・そのうえ、ほんとうになつかしい、いい香りがいたしました。 のぶ子は、青い花に、鼻をつけて、その香気をかいでいましたが、ふいに、飛び上がりました。「わたし、お姉さんを思い出してよ……。」こう叫んでお母さまのそばへ駆けてゆきました。・・・ 小川未明 「青い花の香り」
デパートの内部は、いつも春のようでした。そこには、いろいろの香りがあり、いい音色がきかれ、そして、らんの花など咲いていたからです。 いつも快活で、そして、また独りぼっちに自分を感じた年子は、しばらく、柔らかな腰掛けにからだを投げて・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・あちらの島は、気候もよく、いつでも美しい、薫りの高い花が咲いているということであります。」と、お供のものは申しました。 お姫さまは、だれも気のつかないうちに、あちらの島へ身を隠すことになさいました。ある日のこと三人の侍女とともに、たくさ・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・どこからともなく、柔らかな風が花のいい香りを送ってきますので、それをかいでいるうちに、門番はうとうとと居眠りをしていたのであります。 ちょうど、そのとき、みすぼらしいようすをした女の乞食がお城の内へ入ってきました。女の乞食は門番が居眠り・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・ 私の友人に、寝る前に香り高い珈琲を飲まなければ眠れないという厄介な悪癖の持主がいる。飲む方も催眠剤に珈琲を使用するようでは、全く憂鬱だろうが、そんな風に飲まれる珈琲も恐らく憂鬱であろう。 それと同じでんで、大阪を書くということは、・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に来ているのだと思ったような晩もあります。妄想で自らを卑屈にすることなく、戦うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持をお伝えしたくこの筆をとりました。――一・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・外は夕闇がこめて、煙の臭いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車の轍の響が喧しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ だが、この蛇をのけると、五月の山ほど若々しい、快よい、香り高いところはない。朽ちた古い柴の葉と、萌え出づる新しい栗や、樫や、蝋燭のような松の芽が、醋く、苦く、ぷん/\かおる。朝は、みがかれた銀のようだ。そして、すき通っている。 そ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫