・・・そうなると、私は馬鹿で毎日々々警察からの知らせを心待ちに待つようになりました。 スパイが時々訪ねてくると、私は一々家の中に上げて、お茶をすゝめながら、それとなしに娘のことをきくのですが、少しも分りません。――すると、八ヵ月目かにです・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・ と無慾の人だから少しも構いませんで、番町の石川という御旗下の邸へ往くと、お客来で、七兵衞は常々御贔屓だから、殿「直にこれへ……金田氏貴公も予て此の七兵衞は御存じだろう、不断はまるで馬鹿だね、始終心の中で何か考えて居って、何を問い掛・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・俺も馬鹿な――大方、気の迷いだらずが――昨日は恐ろしいものが俺の方へ責めて来るぢゃないかよ。汽車に乗ると、そいつが俺に随いて来て、ここの蜂谷さんの家の垣根の隅にまで隠れて俺の方を狙ってる。さあ、責めるなら責めて来いッって、俺も堪らんから火の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「馬鹿らしい。なんだって己はこの人達の跡にくっついて歩いているのだろう。なぜ耻かしいなんぞという気を持っているのだろう。なぜ息張っているのだろう。こんな身の上になったのは誰のせいか知らん。誰でも己に為事をしろとさえいえば、己は朝から晩まで休・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・そんなにして、まんまと遠い海の向うへ遁げた後に、またわざわざ殺されにかえる馬鹿があるものか、そんなふざけた手でこのおれが円められると思うのかというように、からからと笑いました。 ピシアスは、「しかしそれには、私がかえるまで、身代りに・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・「おう、つめたい。馬鹿めが煖炉に火を絶やしやあがったな」なんかんというのよ。それからどうかすると、内に帰って来て上沓を穿こうと思うと、目っからないのね。マリイが棚の下に入れて置いたでしょう。ああ、こんなことを言ってここで亭主・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・私が馬鹿な事ばかりやらかして、ちっとも立派な仕事をせぬうちになくなって、残念でなりません。もう五年、十年生きていてもらって、私が多少でもいい仕事をして、お父さに喜んでもらいたかった、とそればかり思います。いま考えると「おどさ」の有難いところ・・・ 太宰治 「青森」
・・・人を眩するような、生々とした気力を持っている。馬鹿ではない。ただ話し振りなどがひどくじだらくである。何をするにも、努力とか勉強とか云うことをしたことがない。そのくせ人に取り入ろうと思うと、きっと取り入る。決して失敗したことがない。 この・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。馬鹿奴、悪魔奴! 蟻だ、蟻だ、ほんとうに蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それで人々は「馬鹿正直」という渾名を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。 音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫