・・・ 今さきハナヤの入口で自分を掏ろうとした頓馬な駆け出しの掏摸の顔を想い出しながら、にやりと笑ったが、ふと時計を見ると、もう豹吉の頬からえくぼが消えてしまった。 十一時半……。 十時に来ていつも十時半に帰ってしまう雪子だったから、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・『幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、』と時田は庭の耳門へ入った、お梅はばたばたと母屋の方へ駆け出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。『帰って?』幸吉は低い声で言った。『今帰ってよ、用が済んだらまたお寄・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・すると突然子供はワアワアと唖のような声を出して駆け出しました。「六さん、六さん」と驚いて私が呼び止めますと、「からす、からす」と叫びながら、あとも振りむかないで天主台を駆けおりて、たちまちその姿を隠してしまいました。 ・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・ マルは廊下伝いに駆出して来た。庭へ下りようともせずに、戯けるような声を出して鳴いた。 おせんが子のように愛した狆の鳴声は、余計に彼女のことを想わせた。一人も彼女に子供が無かったことなぞを思わせた。大塚さんは納戸を離れて、部屋にある・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆け出した。 金椀がカタカタ鳴る。はげしく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸がけたたましく躍り上がる。銃の台が時々脛を打って飛び上がるほど痛い。 「オーい、オーい」 声が立たない。 「オーい・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・群を離れた犬が一疋汀へ飛んで来て草の間を嗅いでいたが、笛の音が響くと弾かれたように駆け出して群の後を追う。 猟の群が通り過ぎると、ひっそりする。沼の面が鏡のように静まる。 いずこともなくニンフとパンの群が出て来る。眩しいような真昼の・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・突然向うの家の板塀へ何か打っつけた音がしたと思うと一斉に駆け出してそれきり何処かへ行ってしまった。凧のうなりがブンブンと聞えている。熱は追々高くなるらしい。口が乾いて舌が上顎に貼り付く。少し眠りたいと思うて寝返りをすると、額の氷袋の氷がカチ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・それが向う河岸の役所の構内へ落ちそうになると、そこの崖で見ていた中年の紳士の一人は急いで駆け出して行って、建物の向うに消えた。まさかあれを取るためにああ急いで駆けて行ったのでもあるまいが。 そのうちに一つ、いつもとはちがって円筒形をした・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・こうしないといけない理由は、やっと勘定をすませて慌てて駆出したために自動車にひかれるという尤もらしいことにしたいためである。 その自動車から毛皮にくるまって降りて来た背の低い狸のようなレデーのあとから降りて来たのがすなわちこの際必要欠く・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・三分心の薄暗いランプを片手に奥から駆け出して来た婆さんが頓狂な声を張り上げて「旦那様! どうなさいました」と云う。見ると婆さんは蒼い顔をしている。「婆さん! どうかしたか」と余も大きな声を出す。婆さんも余から何か聞くのが怖しく、余は婆さ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫