・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋に編上げ靴を穿いた自転車屋の手代とでもいいそうな男が、一円紙幣二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・己の語にあらず、その昔本国にあって時めきし時代より天涯万里孤城落日資金窮乏の今日に至るまで人の乗るのを見た事はあるが自分が乗って見たおぼえは毛頭ない、去るを乗って見たまえとはあまり無慈悲なる一言と怒髪鳥打帽を衝て猛然とハンドルを握ったまでは・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・卓の上には地球儀がおいてありましたしうしろのガラス戸棚には鶏の骨格やそれからいろいろのわなの標本、剥製の狼や、さまざまの鉄砲の上手に泥でこしらえた模型、猟師のかぶるみの帽子、鳥打帽から何から何まですべて狐の初等教育に必要なくらいのものはみん・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁げてここをそっと通るのかと思い、肥った人を見るとデストゥパーゴがわざとそんな形にばけて、様子をさぐっている・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・白っぽい半洋袴服をつけ、役者の子のような鳥打帽をかぶったその男の児は、よろけながら笑った。「大丈夫だよ」 婆さんは荒っぽい愛惜を現した顔で子供を眺めながら云った。「乗りたいの、やっと辛棒してるんだよ。ね? そうだろう?」「そ・・・ 宮本百合子 「一隅」
発動機の工合がわるくて、台所へ水が出なくなった。父が、寝室へ入って老人らしい鳥打帽をかぶり、外へ出て行った。暖炉に火が燃え、鳩時計は細長い松ぼっくりのような分銅をきしませつつ時を刻んでいる。露台の硝子越しに見える松の並木、・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・ 数台まって、やっと乗りこんだ電車は行く先の関係で殆ど労働者専用車だ。鳥打帽をかぶり、半外套をひっかけた大きな体の連中が、二人分の座席に三人ずつ腰かけ、通路まで三重ぐらいに詰って、黙って、ミッシリ、ミッシリ押し合っている。 電車は段・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・若い男のひとが鳥打帽をかぶっていたら、それをぬがせて、手の中に揉んでしらべました。 その室から今度は大階段に向っての廊下にみんな二列に立ちました。そして、病院の廊下のような感じのあるところから公判廷に入りました。 私は、これまでこん・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・ 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇に手を掛けたが、直ぐそのまま為事を続けている。暫く立って見ている内に、階段は立派に直った。「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。「ええ。毎晩いたします。」「泳げるかね。」・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫