・・・が、まだ一足も出さぬうちに彼女の耳にはいったのは戞々と蹄の鳴る音である。常子は青い顔をしたまま、呼びとめる勇気も失ったようにじっと夫の後ろ姿を見つめた。それから、――玄関の落ち葉の中に昏々と正気を失ってしまった。…… 常子はこの事件以来・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具が、指の中でパチリと鳴る。 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、「ええ、さようならばお静に。」「ああ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・省作はたしかに一方にはそう思うけれど、それはどうしても義理一通りの考えで、腹の隅の方で小さな弱々しい声で鳴る声だ。恐ろしいような気味の悪いような心持ちが、よぼよぼした見すぼらしいさまで、おとよ不埒をやせ我慢に偽善的にいうのだ。省作はいくら目・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・佳山水 渾て魔雲障霧の中に落つ 伏姫念珠一串水晶明らか 西天を拝し罷んで何ぞ限らんの情 只道下佳人命偏に薄しと 寧ろ知らん毒婦恨平らぎ難きを 業風過ぐる処花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る 狗子何ぞ曾て仏性無からん 看経声裡・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・そして、急に、いままできこえなかった、遠くで鳴る、汽笛の音などが耳にはいるのでした。「まあ、青い、青い、星!」 電車の停留場に向かって、歩く途中で、ふと天上の一つの星を見て、こういいました。その星は、いつも、こんなに、青く光っていた・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ただ海の鳴る音が宵に聞いたよりももの凄く聞える。私は体の休まるとともに、万感胸に迫って、涙は意気地なく頬を湿らした。そういう中にも、私の胸を突いたのは今夜の旅籠代である。私もじつは前後の考えなしにここへ飛びこんだものの、明朝になればさっそく・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 呶鳴るように言うと、紀代子もぐっと胸に来て、「うろうろしないで早く帰りなさい」 その調子を撥ね飛ばすように豹一は、「勝手なお世話です」「子供のくせに……」 と言いかけたが、巧い言葉が出ないので、紀代子は、「教護・・・ 織田作之助 「雨」
・・・俺は痩の虚弱ではあるけれど、やッと云って躍蒐る、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て山査子の叢立に寄懸って了った。匝れば匝られ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 斯う呶鳴るように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、「そうですか。わかりました。好ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。「・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・です、それこそ今のおかたには想像にも及ばぬことで、じゃんと就業の鐘が鳴る、それが田や林や、畑を越えて響く、それ鐘がと素人下宿を上ぞうりのまま飛び出す、田んぼの小道で肥えをかついだ百姓に道を譲ってもらうなどいうありさまでした。 ある日樋口・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫