・・・この間に桜の散っていること、鶺鴒の屋根へ来ること、射的に七円五十銭使ったこと、田舎芸者のこと、安来節芝居に驚いたこと、蕨狩りに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口を落したことなどを記せる十数行それから次手に小説じみた事実談を一つ報告しまし・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・そこへ石を落したように、鶺鴒が一羽舞い下って来た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利を敷いた小・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒が飛んでいた。 背を刺すような日表は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼っていた。喬はそこに腰を下した。「人が通る、車が通る」と思った。また「街では自分は苦しい」と思・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・右頬を軽く支えている五本の指は鶺鴒の尾のように細長くて鋭い。そのひとの背後には、明石を着た中年の女性が、ひっそり立っている。呆れましたか。どうも私の空想は月並みで自分ながら閉口ですが、けれども私は本気で書いてみたのです。近代の芸術家は、誰し・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・「鶺鴒。」Kは、谷川の岸の岩に立ってうごいている小鳥を指さす。「せきれいは、ステッキに似ているなんて、いい加減の詩人ね。あの鶺鴒は、もっときびしく、もっとけなげで、どだい、人間なんてものを問題にしていない。」 私も、それを思っていた・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ 宿の庭の池に鶺鴒が来る。夕方近くなると、どこからともなく次第に集まって来て、池の上を渡す電線に止まるのが十何羽と数えられることがある。ときどき汀の石の上や橋の上に降り立って尻尾を振動させている。不意に飛び立って水面をすれすれに飛びなが・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 去年の七月にはあんなにたくさんに池のまわりに遊んでいた鶺鴒がことしの七月はさっぱり見えない。そのかわりに去年はたった一匹しかいなかったあひるがことしは十三羽に増殖している。鴨のような羽色をしたひとつがいのほかに、純白の雌が一羽、それか・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ きょうは一天晴れ渡りて滝の水朝日にきらつくに鶺鴒の小岩づたいに飛ありくは逃ぐるにやあらん。はたこなたへとしるべするにやあらんと草鞋のはこび自ら軽らかに箱根街道のぼり行けば鵯の声左右にかしましく 我なりを見かけて鵯の鳴くらしき・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながら、いっしょに砥石をひろったり、鶺鴒を追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。 すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 波ともいわれない水の襞が、あちらの岸からこちらの岸へと寄せて来る毎に、まだ生え換らない葦が控え目がちにサヤサヤ……サヤサヤ……と戦ぎ、フト飛び立った鶺鴒が小波の影を追うように、スーイスーイと身を翻す。 ところどころ崩れ落ちて、水に・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫