・・・日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがろうとするらしい。が、障子の中では、不相変面白そうな話声がつづいている。彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂に・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風へ。 さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩き・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・一言にして云えばこの涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の燈火をつつましやかにともしてくれる。ああ、東京の町の音も全くどこかへ消えてしまう真夜中、涙に濡れた眼を挙げながら、うす暗い十燭の電燈の下に、たった一人逗子の海風とコルドヴァの杏・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・それも秋で、土手を通ったのは黄昏時、果てしのない一面の蘆原は、ただ見る水のない雲で、対方は雲のない海である。路には処々、葉の落ちた雑樹が、乏しい粗朶のごとく疎に散らかって見えた。「こういう時、こんな処へは岡沙魚というのが出て遊ぶ」 ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
もとの邸町の、荒果てた土塀が今もそのままになっている。……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりの――山国で――石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条煙のように、ぼっと黄昏れて行く。 弥生の末から、ちっとずつの遅速はあっても、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱れ、どくだみの香深く、薊が凄じく咲き、野茨の花の白いのも、時ならぬ黄昏の仄明るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢に響く波の音、吹当つる浜風は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・そして、その日の黄昏方、吹いてくる風に散ってしまいました。 もう一つの鉢からは、青い色の花が咲きました。しかし、このほうは、珍しく、元気がよくて、幾つも同じような花を開きました。そのうえ、ほんとうになつかしい、いい香りがいたしました。・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・ まだ、寒い、早春の黄昏方でありました。往来の上では、子供らが、鬼ごっこをして遊んでいました。三人の子供らは、いつしか飴チョコを箱から出して食べたり、そばを離れずについている、白犬のポチに投げてやったりしていました。その中に、まった・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・そして、しまいには、うす青い、黄昏の空にはかなく消えて、また低く岸を打つ波の音にさらわれて、暗い奈落へと沈んでゆくのでした。おじいさんは、自分の鳴らす、バイオリンの音に、自分からうっとりとして、時のたつのを忘れることもありました。 夏の・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・私は肝をつぶし、そしてカッとなりましたが、その腹の虫を押えるために飲んだ酒と花代で、私が白浜から持ってきた金はほとんどなくなってしまい、ふらふらと桔梗屋を出たのは、あくる日の黄昏前だった。私は太左衛門橋の欄干に凭れて、道頓堀川の汚い水を眺め・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫