・・・川留か、火事のように湧立ち揉合う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆さる。 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 道の左右は人間の黒山だ。お捻の雨が降る。……村の嫁女は振袖で拝みに出る。独鈷の湯からは婆様が裸体で飛出す――あははは、やれさてこれが反対なら、弘法様は嬉しかんべい。万屋 勝手にしろ、罰の当った。人形使 南無大師遍照金剛。――・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ その日も、二人のまわりには、いつものごとく、人が黒山のように集まっていました。「こんないい、笛の音を聞いたことがない。」と、一人の男がいいました。「私は、ほうぼう歩いたものだが、こんないい笛の音を聞いたことがなかった。なんだか・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・来るだろうかという見出しで、また書きたてましたので、約束の日、私が田所さんたちといっしょに天王寺西門の鳥居の下へ行くと、おりから彼岸の中日のせいもあったが、鳥居の附近は黒山のような人だかりで、身動きもできぬくらいだった。私は新聞の記事にあお・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 家の三軒向うは黒山署の防犯刑事である。半町先に交番がある。間抜けた強盗か、図太い強盗かと思いながら、ガラリと戸をあけると、素足に八つ割草履をはいた男がぶるぶる顫えながらちょぼんと立ってうなだれていた。ひょいと覗くと、右の眼尻がひどく下・・・ 織田作之助 「世相」
・・・交番のまえには、黒山のように人がたかりました。みんな町内の見知った顔の人たちばかりでした。私の髪はほどけて、ゆかたの裾からは膝小僧さえ出ていました。あさましい姿だと思いました。 おまわりさんは、私を交番の奥の畳を敷いてある狭い部屋に坐ら・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・レールを挾んで敵の鉄道援護の営舎が五棟ほど立っているが、国旗の翻った兵站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のように集まって、長い剣を下げた士官が幾人となく出たり入ったりしている。兵站部の三箇の大釜には火が盛んに燃えて、煙が薄暮の空に濃く靡いて・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ プラットフォームをすっかりはずれて、妙な門を入って、どろんこをとび越えたところに、黒山の人だかりがある。のぼせて商売をしている女売子のキラキラした眼が、小舎の暗い屋根、群集の真黒い頭の波の間に輝やいている。樺の木箱、蝋石細工、指環、頸・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・とをきいたので、議事堂の建物からいえば横裏にあたる門から入って行ったら、もうぎっしりの人の列であった。携帯品預かり所の印半纏の爺さんが「細かいものは風呂敷に包むなり、ポケットへ入れるなりして下さい」と黒山の人の頭越しにどなっている。外套、帽・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
出典:青空文庫