・・・この使の小僧ですが、二日ばかりというもの、かたまったものは、漬菜の切れはし、黒豆一粒入っていません。ほんとうのひもじさは、話では言切れない、あなた方の腹がすいたは、都合によってすかせるのです。いいえ、何も喧嘩をするのじゃありません、おわかり・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・近い干潟の仄白い砂の上に、黒豆を零したようなのは、烏の群が下りているのであろうか。女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻った。「堪らねえなあ」 彼は、窓から外を見続けていた。「キョロキョロしちゃいけない。後ろ頭だけなら、誰って怪しみはしないさ。キョロキョロしてはいけねえ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・と、猫板の上に小皿に盛った黒豆を出してくれた。甘く煮た黒豆! 一太は食慾のこもった眼を皿の豆に吸いよせられながら、膝小僧を喰つけて小さくその前に坐った。一太は厳しく云いつけられている通り、「御馳走さま」とお礼を云った。母親の頭が・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・わきに国男が白い浴衣姿でしゃがんで、黒豆という名の黒い善良な犬が尻尾をふっている。太郎に私が上から「太郎ちゃん、ワンワンにおかし、はいって!」と云ったら、Sさんというスエ子の注射のために来ている看護婦が「おやりになってるもんだから味をしめて・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫