・・・すると新蔵はなおさらの事、別人のように黙りこんで、さっさと歩みを早めたそうですが、その内にまた与兵衛鮨の旗の出ている下へ来ると、急に泰さんの方をふり向いて、「僕はお敏に逢ってくりゃ好かった。」と、残念らしい口吻を洩しました。その時泰さんが何・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。 物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そう思ったので帽子も被らないで、黙りで、ふいと出た。 直き町の角の煙草屋も見たし、絵葉がき屋も覗いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町行き、一町行き……山の温泉の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、や・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 彼はますます不機嫌に黙りこんでしまった。私はすっかりてれて、悄げてしまった。「準備はもうすっかりできたのかね?」と、私は床の間の本箱の側に飾られた黒革のトランクや、革具のついた柳行李や、籐の籠などに眼を遣りながら、言った。「ま・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・その時間私とその友達とは音楽に何の批評をするでもなく黙り合って煙草を吸うのだったが、いつの間にか私達の間できまりになってしまった各々の孤独ということも、その晩そのときにとっては非常に似つかわしかった。そうして黙って気を鎮めていると私は自分を・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・というような気持でわざと黙り続けているのだった。しかし吉田がそう思って黙っているというのは吉田にしてみればいい方で、もしこれが気持のよくないときだったら自分のその沈黙が苦しくなって、というようなことから始まって、母親が自分のそんな意志を否定・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・喋べくりながら合品を使っていた女達が、不意につゝましげに黙りこんだ。井村は闇の中をうしろへ振りかえった。白服の、課長の眼鏡が、カンテラにキラ/\反射していた。「どうだい、どういうとこを掘っとるか?」 採鉱成績について、それが自分の成・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ それでまた両人は黙りこんで耳をすました。「やっぱり百姓の方がえい。」とばあさんはまた囁いた。「お、なんぼ貧乏しても村に居る方がえい。」とじいさんはため息をついた。「今から去んで日傭でも、小作でもするかい。どんなに汚いところ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・黙って黙って黙り通しにしているの。わたしいつもこんな時は、そんなにしているのがお前さんの強みだと思ったわ。だけれど本当はそうじゃないかも知れないわ。お前さんにはなんにもいうことがないのかも知れないわ。お前さんはなんにも考えてはいないのかも知・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・中央の列の人はみんな申し合せたように黙りこんでいた。左右の席の人々が何となく緊張しているに反して中央の席の人々は、まるで別の国の人のように気楽そうに見えた。その中のある人は、演説のある最中に呑気相に席を立ってどこかへ出て行ったりした。その時・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
出典:青空文庫