・・・ 旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉えて来た、戸口にいる歩哨を喚びかけた。歩兵、――それは白襷隊に加わっていた、田口一等卒にほかならなかった。――彼は戸の卍字格子を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・と尋ね合いましたが、それぎり受話器の中はひっそりして、あの呟くような鼻声さえ全く聞えなくなってしまいました。「こりゃいけない。今のは君、あの婆だぜ。悪くすると、折角の計画も――まあ、すべてが明日の事だ。じゃこれで失敬するよ。」――こう云いな・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 扉を開けた出会頭に、爺やが傍に、供が続いて突立った忘八の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾に頸からさきへ突込む目に、何と、閨の枕に小ざかもり、媚薬を髣髴とさせた道具が並んで、生白けた雪次郎・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ などと、何れも浅ましく口拍子よかった中に、誰やら持病に鼻をわずらったらしいのが、げすっぽい鼻声を張り上げて、「やい、そう言うおのれの女房こそ、鷲塚の佐助どんみたいな、アバタの子を生むがええわい」 と呶鳴った。 その途端、一・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・高等学校にいた頃、脚本朗読会をやってわざわざ友田恭助を東京から呼び、佐伯は女役になってしきりにへんな声を出し、友田は特徴のある鼻声をだし、終って一緒に記念写真を写したこともある。コトコトと動いていなければ気の済まない友田は写真をうつす時もひ・・・ 織田作之助 「道」
・・・ と、鼻声で言いながら、ハナヤへはいって来た十七、八の、鼻の頭の真赤な男の方へ、視線を移さねばならない。 豹吉を兄貴と呼んだ所を見れば、同じ掏摸仲間であろう。名前は亀吉……。 首が短かく、肩がずんぐりと張り、色が黒い。亀吉という・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・とさすが快活な男も少し鼻声になりながらなお酔に紛らして勢よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行を積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目になりたるのみ。 男なお語をつづ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院させた。高橋は静かに、謂わば、そろそろと、狂っていったのである。味わいの深い狂いかたであると思惟いたします。ああ。あなたの小・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ その後都へ出て洋画の展覧会を見たりする時には、どうかすると中学時代の事を思い出し、同時にあの絵の具の特有な臭気と当時かきながら口癖に鼻声で歌ったある唱歌とを思い出した、そうして再びこの享楽にふけりたいという欲望がかなり強く刺激されるの・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・それは妙に押しつぶされたような鼻声ではあったが、ともかくも文学士の特徴ある「ラアヽ」などの抑揚をかなり忠実に再現したので、講堂の中からは自然な感嘆の声とおさえつけた笑声とが一時に沸きあがった。 この一日の出来事はどういうものか私の中学時・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫