・・・噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快かった入口の、立看板の白く冴えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢の卯の花の水の栞をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲の温室のような気のする、雨気と人の香の、むっと籠った待合の裡へ、コツコツと――やはり泥になった――・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・前の晩は、雨気を含んで、花あかりも朦朧と、霞に綿を敷いたようだった。格子戸外のその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は窪んでいる……額をさきへ、門口へ突出すと、顔色の青さをあぶられそうな、からりとした春爛な朝景色さ。お京さ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 十五日、朝、雨気ありたれども思いきりて出づ。三の戸、金田一、福岡と来りしが、昨日は昼餉たべはぐりてくるしみければ今日はむすび二ツもらい来つ、いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六厘と云う。三つばかり買いてなお進み行くに、路・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間の斜面を白雲が幾条ものひもになってはい上がる。それが山腹から噴煙でもしているように見える。峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 三 簑虫 八月のある日、空は鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机に凭れてK君に端書を書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、し・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 飛び石のそばに突兀としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌の真西あた・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・或日再び小石川を散歩した。雨気を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処を得顔・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫