・・・それを意識することは堪えがたかった。 おげんは父が座敷牢の格子のところで悲しみ悶えた時の古歌も思出した。それを自分でも廊下で口ずさんで見た。「きりぎりす 啼くや霜夜のさむしろに、ころもかたしき独りかも寝む……・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・この意識の消しがたいがために、義務道徳、理想道徳の神聖の上にも、知識はその皮肉な疑いを加えるに躊躇しない、いわく、結局は自己の生を愛する心の変形でないかと。 かようにして、私の知識は普通道徳を一の諦めとして成就させる。けれども同時にその・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・あとで考えると、このへんで引き返しさえしたらよかったのに、自分はいつまでも馬の臀について、山畠を五つも六つも越えて、とうとお長の行くところまで行ったのであった。谷合いの畠にお長の双た親と兄の常吉がいた。二三寸延びた麦の間の馬鈴薯を掘っていた・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ふたり共、それをちゃんと意識していて、お酒に酔ったとき、掛合いで左団次松蔦の鳥辺山心中や皿屋敷などの声色を、はじめることさえ、たまにはありました。 そんなとき、二階の西洋間のソファにひとり寝ころんで、遠く兄たち二人の声色を聞き、けッと毒・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 無意識に輾転反側した。 故郷のことを思わぬではない、母や妻のことを悲しまぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでもよい。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばな・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかしS先生が意識して嘘をわざわざ書かれるはずはないので、詳細の点に関する記憶の誤りや思い違いはあるにしても大体の事実に相違はないであろうと思われた。それで、これは夏目先生に関する一つの資料として保存しておけば他日きっと役に立つ機会があるで・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・経済的には膨脹していても、真の生活意識はここでは、京都の固定的なそれとはまた異った意味で、頽廃しつつあるのではないかとさえ疑われた。何事もすべて小器用にやすやすとし遂げられているこの商工業の都会では、精神的には衰退しつつあるのでなければ幸い・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・女は一度もふりむかないけれど、うしろを意識している気ぶりは、うしろ姿のどこにもあらわれている。裾をけひらくような特徴のある歩き方、紅と紫のあわせ帯をしているすらッとした腰のへん。ときどきつれの小娘に肩をよせてから前こごみになってひびかせる笑・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 断髪の娘は、不意に、天秤棒でお臀を殴られると、もろくそこへ、ヘタってしまった。「いたいッ」 娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさんを睨んだ。「ど、どうしてくれる、この麦を!」 善ニョムさんは、その断・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・然し彼の意識しない愛惜と不安とが対手に愁訴するように其声を顫わせた。殺すなといえばすぐ心が落ち付いて唯其犬が不便になったのである。然し対手は太十の心には無頓着である。「おっつあん殺すのか」 斯ういう不謹慎ないいようは余計に太十を惑わ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫