・・・ 何事をするも明日の事、今夜はこれでと思いながら、主なき家の有様も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少しく低いわが家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。 幸に家族の者が逃げる時に消・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ また一言いって玉を見ている。 省作はからだは大きいけれど、この春中学を終えて今年からの百姓だから、何をしても手回しがのろい。昨日の稲刈りなどは随分みじめなものであった。だれにもかなわない。十四のおはまにも危うく負けるところであった・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「そう云やア、僕等は一言も口嘴をさしはさむ権利はない、さ」「まァ、死にそこねた身になって見給え。それも、大将とか、大佐とかいうものなら、立派な金鵄勲章をひけらかして、威張って澄ましてもおられよけど、ただの岡見伍長ではないか? こない・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・その時代の若書きとして残ってるもの、例えば先年の椿岳展覧会に出品された淡島嘉兵衛旧蔵の飛燕凝粧の図の如きは純然たる椿年派であって奔放無礙の晩年の画ばかり知ってるものは一見して偽作と思うだろう。が、その家に伝わったもので、画は面白くなくても椿・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・我々鈍漢が千言万言列べても要領を尽せない事を緑雨はただ一言で窮処に命中するような警句を吐いた。警句は天才の最も得意とする武器であって、オスカー・ワイルドもメーターランクも人気の半ばは警句の力である。蘇峰も漱石も芥川龍之介も頗る巧妙な警句の製・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そして外国語で何か一言言うのが聞えた。 その刹那に周囲のものが皆一塊になって見えて来た。灰色の、じっとして動かぬ大空の下の暗い草原、それから白い水潦、それから側のひょろひょろした白樺の木などである。白樺の木の葉は、この出来事をこわがって・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・もとより私に、一言の断りもいたしません。それほど、みんなは私をばかにしたのです。 そのうちに、夏もゆき、秋がきました。秋も末になると、ある日のこと、ペンキ屋がきて私を美しく、てかてかと塗りました。私は、思いがけないりっぱな着物を着たので・・・ 小川未明 「煙突と柳」
・・・そして、糸で綴られていて、一見不器用だけれど、手工業時代の産物としての趣味があり、一種の芸術味が存している。中には絵などが入っていて、一層の情趣を添えるのもあって、まことに書物として玩賞に値するのであります。 和本は、虫がつき易いからと・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ 人生の進路も、生活の形態も、一元的に決定することはできないであろう。故に、一つの主義が勃興すれば、それと対蹠的な主義が生起する。かくして、その相剋の間に真理は見出されるのを常とします。しかし、真の殉教者は、そのいずれに於ても、狂信的な・・・ 小川未明 「文化線の低下」
・・・と私は門口から言った。 すると、三十近くの痩繊の、目の鋭い無愛相な上さんが框ぎわへ立ってきて、まず私の姿をジロジロ眺めたものだ。そうして懐手をしたまま、「お上り。」と一言言って、頤を杓った。 頤で杓った所には、猿階子が掛っていて・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫