・・・私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔を蔽いかくした。 さて、午過ぎからは、家中大酒盛をやる事になったが、生憎とこの大雪で、魚屋は河岸の仕出しが出来なかったと云う処から、父は家のを殺して、出入の者共を饗応する事にした。一同喜び、狐の忍入・・・ 永井荷風 「狐」
・・・昼夜一 来往すること昼夜を無するや或連レ袂歌呼 或は袂を連ねて歌呼し或謔浪笑罵 或は謔浪笑罵す或拗レ枝妄抛 或は枝を拗りて妄りに抛て或被レ酒僵臥 或は酒に被いて僵臥す游禽尽驚飛 游禽・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・一纏めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫になったり、解くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車というよりは、吾人の知・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・ 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。 床柱に懸けたる払子の先・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・すると地面の下の方で、「おおおい」と呼ぶ声がする。 碌さんは両手を、耳の後ろに宛てた。「おおおい」 たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から湧いて出る。「おおおい」 碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・と碌さんは、身躯を前に曲げながら、蔽いかかる草を押し分けて、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と云った。「ないだろう」「そっちにはあるかい」「うん。たった二つある」「二・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 右のような訳で、高校時代には、活溌な愉快な思出の多いのに反し、大学時代には先生にも親しまれず、友人というものもできなかった。黙々として日々図書室に入り、独りで書を読み、独りで考えていた。大学では多くのものを学んだが、本当に自分が教えら・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・したがつてニイチェの善き理解者は、学者や思想家の側にすくなくして、いつも却つて詩人や文学者の側に多いのである。 近代の文学者の中で、ニイチェほど大きく、且つ多方面に影響をあたへたものはない。思想方面では、レーニンやトロツキイの共産主・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・その蓋から一方へ向けてそれで蔽い切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。何しろ可成り距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。 私は、ブルブル震え・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・然しだ、私は言い訳をするんじゃないが、世の中には迚も筆では書けないような不思議なことが、筆で書けることよりも、余っ程多いもんだ。たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れた・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫