・・・相変らず、おかしげににやにや独りで笑っていた。「イーイーイイイ!」という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってき・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 支那人の呉清輝は、部屋の入口の天鵞絨のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑た顔を深沢にむけてのぞかした。深沢は、二人の支那人の肩のあいだにぶらさがって顔をしかめている田川を睨めつけた。「何、貴様が、ボンヤリしているんだ!・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・日本でも時飛んでもないことをする者があって、先年西の方の某国で或る貴い塋域を犯した事件というのが伝えられた。聞くさえ忌わしいことだが、掘出し物という語は無論こういう事に本づいて出来た語だから、いやしくも普通人的感情を有している者の使うべきで・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・たまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人吹革もて烈しく炭火を煽り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしくもまた嬉しくもおぼえぬ。田中とい・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・このあたりあさのとりいれにて、いそがしぶる乙女のなまじいに紅染のゆもじしたるもおかしきに、いとかわゆき小女のかね黒々と染ぬるものおおきも、むかしかたぎの残れるなるべしとおぼしくて奇なり。見るものきくもの味う者ふるるもの、みないぶせし。笥にも・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・俄に強く衝き動かされて、ぐらぐらとなったように見えたが、憤怒と悲みとが交り合って、ただ一ツの真面目さになったような、犯し難い真面目さになって、「ム」と行詰ったが如くに一ト息した。真面目の顔からは手強い威が射した。主人も女も其威に打た・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。いずれにしても、死刑そのものはなん・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 私が如何にして斯る重罪を犯したのである乎、其公判すら傍聴を禁止せられた今日に在っては、固より十分に之を言うの自由は有たぬ。百年の後ち、誰か或は私に代って言うかも知れぬ、孰れにしても死刑其者はなんでもない。 是れ放言でもなく、壮語で・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・その狐の顔がそこの家の若い女房におかしいほどそっくりなので、この近在で評判になった。女房の方では少しもそんなことは知らないでいたが、先達ある馬方が、饅頭の借りを払ったとか払わないとかでその女房に口論をしかけて、「ええ、この狐め」「何・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・印刷所の手落ちでは無く、兄がちゃんと UMEKAWA と指定してやったものらしく、uという字を、英語読みにユウと読んでしまうことは、誰でも犯し易い間違いであります。家中、いよいよ大笑いになって、それからは私の家では、梅川先生だの、忠兵衛先生・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫