・・・それでさえ怒り得ないで、悄々と杖に縋って背負って帰る男じゃないか。景気よく馬肉で呷った酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げっそり空腹と来て、蕎麦ともいかない。停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしの・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・れまでどうしていたんだか、まるで夢のようでと火花の散るごとく、良人の膚を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽けき呻吟声の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼み、且つ泣き、且つ怒り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志の思慮には何らの工夫も無かったのであ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を拭きながら座敷を出た。出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂の端を右の手で口・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・それでもしわれわれが今より百年後にこの世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、ドウでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか。なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・と、三人は、青い顔をして怒りました。 みんなは、意外なできごとに驚いて、三人をやっとのことでなだめました。「ちょうど、ここから見ると、あの太陽の沈む、渦巻く炎のような雲の下だ。その島に着くと、三人はひどいめにあった。朝から晩まで、獣・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ たちまち、鋭い口笛のひびきが子供の唇から起こりました。子供は、指を曲げてそれを口にあてると、息のつづくかぎり、吹きならしたのであります。 このとき、紅みがかった、西の空のかなたから、一点の黒い小さな影が雲をかすめて見えました。やが・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・こんなものが食えるものかと、お君の変心を怒りながら、箸もつけずに帰ってしまった。そのことを夕飯のとき軽部に話した。 新聞を膝の上に拡げたままふんふんと聴いていたが、話が唇のことに触れると、いきなり、新聞がばさりと音を立て、続いて箸、茶碗・・・ 織田作之助 「雨」
・・・しろ、それらの作品を取り巻く文壇の輿論、即ち彼等の文学を最高の権威としている定説が根強くはびこっている限り、日本の文壇はいわゆる襟を正して読む素直な作品にはことを欠かないだろうが、しかし、新しい文学は起こり得ない、可能性の文学、近代小説は生・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂っている叢になっている。またそこには見えないが、色づきかけた・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫