・・・けれどもぼくは何だか圧しつけられるようであの行進歌はきらいだ。何だかあの歌を歌うと頭が痛くなるような気がする。実習のほうが却っていいくらいだ。学校から纏めて注文するというので僕は苹果を二本と葡萄を一本頼んでおいた。四月九日〔以下・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・〕いいや駄目だ。おしまいのことを云ったのは結局混雑させただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうの嫩い緑や、灰いろの芽や、樺の木の青やずいぶん立派だ。佐藤箴がとなりに並んで歩いてるな。桜羽場がまた凝灰岩を拾ったな。頬がまっ・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・信州の宿屋の一こま、産婆のいかがわしい生活の一こま、各部は相当のところまで深くつかまれているけれども、場面から場面への移りを、内部からずーと押し動かしてゆく流れの力と幅とが足りないため、移ったときの或るぎこちなさが印象されるのである。 ・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・アメリカ、イギリスのように資本主義の下での民主主義を完成して更により発展した民主主義社会への見とおしにおかれている国。ソヴェト同盟のように、社会主義的民主社会に歩み入っている国。 その国々で、婦人たちの社会生活条件は其々に違っている。未・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・「彼等のこの数年間の同居生活は、鴛鴦のようだと云っていけなければ、一対の小さな雀のようであったと云えよう。」 ところが或る日のことであった。午砲の鳴る頃、春桃は、いつもの通り屑籠を背負ってとある市場へ来かかった。突然入口で「春桃、春桃!・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・ こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇を向いた。「どうぞそ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。 津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。五助が墓地にはいって・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そして家の背後の空地の隅に蹲って、夜どおし泣いた。 色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである。女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。 翌日は朝から晩まで、亭主が女・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙をもよおした。無論荒誕のことを信ずる世の人だから夢を気にかけるのも無理ではない。思えば思うほど考えは遠くへ走って、それでなくてもなかなか強い想像力がひとしお跋扈を極めて判断力をも殺いた。早くここでその・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 暫くすると、人々に腕を持たれた秋三は勘次を睥み乍ら、裸体の肩口を押し出して、「放せ、放せ。」と叫んでいた。 勘次はただ黙って突き立ったまま、ひた押しに秋三の方へ進もうとした。「今日という今日は、承知せんぞ!」「何にッ!・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫