・・・私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流の嗜みがあるわけでもないただの俗人であったが、以て馬琴の当時の人気を推すべきである。 このお庇に私は幼時から馬琴に親しんだ。六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 師となり、なぐさめとなり、志を同じうするものこそ、即ち自分の正しく良書と推すべきものです。こうした、著者が世界に幾人もないごとく、況んや良書のそう沢山ある筈はありません。 何はともあれ、人生の楽しみにして良書を得た時より、さらに深・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・と、お姉さんは念を押すようにおっしゃいました。「僕の持っているもの、お姉さんにあげるけどなあ。」と、良ちゃんは、いいました。「ほほほほ、良ちゃんは、どんなものを持っているの?」「僕だいじにしているものがあるのだよ。」「どんな・・・ 小川未明 「小さな弟、良ちゃん」
・・・ 近所に郵便局があるので、取りに行けばよさそうなものだし、自分で行くのが面倒だったら、家政婦に行かせばよさそうなものだのに、為替に住所姓名を書いて印を押すのが面倒な上に、家政婦に郵便局へ行ってくれと頼むのが既に面倒くさいのだ。一つには、・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・よし、このおれは……と、荷車の押す手に、思い掛けない力が籠って、父親の新助がおどろくくらいだった。 十六歳の時、丹造は広島をあとにして、立身出世の夢を宿毎に重ねて、大阪の土を踏んだ。時に明治十五年であった。 すぐに道修町の薬種問屋へ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・徳二郎はちょっと立ち止まって聞き耳を立てたようであったが、つかつかと右なるほうの板べいに近づいて向こうへ押すと、ここはくぐりになっていて、黒い戸が音もなくあいた。見ると、戸にすぐ接して梯子段がある。戸があくと同時に、足音静かに梯子段をおりて・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、膿や、便器の臭いが、まだ痛みの去らない鼻に襲いかゝった。 踵を失った大西は、丸くなるほど繃帯を巻きつけた足を腰掛けに投げ出して、二重硝子の窓から丘を下って行くアメリカ兵を・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・脚がぶくぶくにはれて、向う脛を指で押すと、ポコンと引っこんで、歩けない娘も帰って来た。病気とならない娘は、なか/\町から帰らなかった。 そして、一年、一年、あとから生長して来る彼女達の妹や従妹は、やはり町をさして出て行った。萎びた梨のよ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・客はなんにも所在がないから江戸のあの燈は何処の燈だろうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上から押すのですから、澪を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 独房の入口の左上に、簡単な仕掛けがあって、そこに出ている木の先を押すと、カタンと音がして、外の廊下に独房の番号を書いた扇形の「標示器」が突き出るようになっている。看守がそれを見て、扉の小さいのぞきから「何んだ?」と、用事をきゝに来てく・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫