・・・忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」大学士はこの語を聞いてすっかり愕ろいてしまう。「どうも実に記憶のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしない・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・私たちも、そのときは、肩で人を押すようにして、乗らなければなりません。けれども、そうしてその時に乗ってしまえば、其で私たちの考えることもすんでしまったわけでしょうか。ほんとに嫌になっちゃうわ、ねえ、という丈をくりかえしていてすむものでしょう・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・ そして私に向い念を押すようにきいた。「――組合に入ってなければ大丈夫なんでしょ?」「組合に入ってたって悪かないじゃないの」 しかし、自分は娘さんの調子が心もとなくなって云った。「……組合に入っていないにしろ、ストライキ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・これは私たち日本の作家が外国人に、誰を推すか、と訊かれたときの心持を思い出してみればよくわかる。 ほんとうの文学作品であるとはいえないけれども、国内ではなにかの理由で存在している作家や作品というものは現実にある。現在日本のジャーナリズム・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
・・・ そこまでは各選者とも一致した意見であったが、同時に、この作品を特にすぐれたものとして第一位に推すことは不適当であるという意見にも皆が賛成であった。そこに、この作の作者も読者も深く考えなければならない点があろうと思う。 作者は素直に・・・ 宮本百合子 「入選小説「毒」について」
・・・さおで岸を一押し押すと、舟は揺めきつつ浮び出た。 ―――――――――――― 山岡大夫はしばらく岸に沿うて南へ、越中境の方角へ漕いで行く。靄は見る見る消えて、波が日にかがやく。 人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・窓へ手を掛けて押すとなんの抗抵もなく開く。その時がさがさと云う音がしたそうだ。小川君がそっと中を覗いて見ると、粟稈が一ぱいに散らばっている。それが窓に障って、がさがさ云ったのだね。それは好いが、そこらに甑のような物やら、籠のような物やら置い・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・キュウネマンさんの詞から推すと、ドイツ人の中のあるものは日本人を分らず屋ばかりだとしていると見える。その位だからドイツで興行した時の見物と日本で興行した時の見物とを較べたら、日本ではドイツの場合より分からず屋が多かろうと云う推定は下されよう・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
出典:青空文庫