・・・参詣人が来ると殊勝な顔をしてムニャムニャムニャと出放題なお経を誦しつつお蝋を上げ、帰ると直ぐ吹消してしまう本然坊主のケロリとした顔は随分人を喰ったもんだが、今度のお堂守さんは御奇特な感心なお方だという評判が信徒の間に聞えた。 椿岳が浅草・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・当時の成上りの田舎侍どもが郷里の糟糠の妻を忘れた新らしい婢妾は権妻と称されて紳士の一資格となり、権妻を度々取換えれば取換えるほど人に羨まれもしたし自らも誇りとした。 こういう道義的アナーキズム時代における人の品行は時代の背景を斟酌して考・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・勧善懲悪の旧旗幟を撞砕した坪内氏の大斧は小説其物の内容に対する世人の見解を多少新たにしたが、文人其者を見る眼を少しも変える事が出来なかった。夫故、国会開設が約束せられて政治休息期に入っていた当時、文学に対する世間の興味は俄に沸湧して、矢野と・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・偶々二三の人が著述に成功して相当の産を作った例外の例があっても、斯ういう文壇の当り屋でも今日の如く零細なる断片的文章を以てパンに換える事は決して出来なかった。 夫故、当時に在っては文人自身も文学を以て生活出来ると思わなかった。文人が公民・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・言換えると二葉亭は周囲のもの一切が不満であるよりはこの不満をドウスル事も出来ないのが毎日の堪えざる苦痛であって、この苦痛を紛らすための方法を求めるに常に焦って悶えていた。文学もかつてその排悶手段の一つであったが、文学では終に紛らし切れなくな・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・ 越王勾践呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいまし・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・そして家へ帰る路すがら、自分もいつかお父さんや、お母さんに別れなければならぬ日があるのであろうと思いました。四 あいかわらず、その後も、町の方からは聞き慣れたよい音色が聞こえてきました。乳色の天の川が、ほのぼのと夢のように空・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・もしかだれか、知らぬ人の手に渡ってしまって、ふたたび自分の手に返るようなことはないと考えましたときは、彼は、どんなに悲しみ、もだえたでありましょう。 けれど、あのバイオリンは、きっと、いつか自分の手にもどってくるにちがいないと信じますと・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ ここから故郷へは二百里近くもある。帰るに旅費はなし、留まるには宿もない。止むなくんば道々乞食をして帰るのだが、こうなってもさすがにまだ私は、人の門に立って三厘五厘の合力を仰ぐまでの決心はできなかった。見えか何か知らぬがやっぱり恥しい。・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 七歳の夏、帰ることになりました。さすがの父も里子の私を不憫に思ったのでしょう。しかし、その時いた八尾の田舎まで迎えに来てくれたのは、父でなく、三味線引きのおきみ婆さんだった。 高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫