・・・世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際ぐらいは格別辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主の玄関で叩頭をして御慶を陳べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの意地ッ張がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 一事が万事、丁稚奉公は義理にも辛くないとは言えなかったが、しかしはじめての盆に宿下りしてみると、実家はその二三日前に笠屋町から上ノ宮町の方へ移っていました。上宮中学の、蔵鷺庵という寺の真向いの路地の二軒目。そして、そこにはもう玉子はい・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ と、お千鶴のことを訊きたかったが、どうせ苦労しているにちがいないと思うと、聴けばかえって辛くなるだろうと、よした。お千鶴ももう年だ。なんとなく、あの灸婆のことが想い出されたりして、想えばお千鶴も可哀想な女だと、いまはもう色気なぞ抜きに・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・石田の細君はヒステリーで彼女に辛く当った。なんだい、あんなお内儀と、石田を取ってやるのがいい気味であり、そしてもう石田を細君の手に渡したくなかった。二人の仲はすぐ細君に知れて、彼女は暇を取り、尾久町の待合「まさき」で石田に会った。情痴の限り・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ もとは叔母姪の間柄であったから、さすがに礼子は世の継母のように寿子に辛く当ろうとはしなかった。むしろ、良い母親といってもよかった。 しかし、夫の庄之助が今日この頃のように明けても暮れても寿子にかまけていて、礼子自身腹を痛めた弟や妹・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・字滝の上というところにかかれる折しも、真昼近き日の光り烈しく熱さ堪えがたければ、清水を尋ねて辛くも道の右の巌陰に石井を得たり。さし当りては鬢水よりもこれこそ嬉しけれと、汲みて喉を潤おしつ、この井に名ありやと問えばなしという。名のなくてすみぬ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・これも驚いて仰反って倒れんばかりにはなったが、辛く踏止まって、そして踏止まると共に其姿勢で、立ったまま男を憎悪と憤怒との眼で睨み下した。悍しい、峻しい、冷たい、氷の欠片のような厳しい光の眼であった。しかし美しいことは美しい、――悪の美しさの・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・今日、両親と別れるのが辛くて歎いている心は、やがて、自分の為になる財産の一つとなるだろうと考えたので、彼は、それをも、スバーに対する信用の一つに加えました。牡蠣についた真珠のように、娘の涙は彼女の価値を高めるばかりでした。彼は、スバーが自分・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・私は、もっとビイルを飲みたかったのだが、いまこの場の空気を何故だか、ひどく大事にして置きたくて、飲酒の欲望を辛く怺えた。「君たちも、これから、なるべくならビイルを飲むな! カール・ヒルティ先生の曰く、諸君は教養ある学生であるから、酒を飲んで・・・ 太宰治 「乞食学生」
出典:青空文庫