・・・私が日本の諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて、全くチンプンカンプンであることである。 何処に「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大そ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・達者ニ在ッテハ何ゾ必ズシモ其遽カニ至ルヲ驚カン哉。 これは先日、先生から読み方を教えられたばかりなので、私には何の苦も無く読めるのである。「流石にいい句ですね。」私はまた下手なお追従を言った。「筆蹟にも気品があります。」「何を言・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・研究題目は上長官の命令で決まっており、その上に始めから日限つきでその日までにはどうでも目鼻をつけなければならないこともある。実におそらく最も不自由な場合であるが、面白いことには、学者によってはこの狭い天地の中でさも愉快そうに自由自在に活動し・・・ 寺田寅彦 「学問の自由」
・・・ 科学に関する理解のはなはだ薄い上長官からかなり無理な注文が出ても、技師技手は、それはできないなどということはできない地位におかれている。それでできないものをでかそうとすれば何かしら無理をするとかごまかすとかするよりほかに道はない、とい・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・せっかく続けている観測も上長官が交迭して運悪く沿革も何も考えぬような後任者が来ると、こんな事やっても何にもならんじゃないかの一言で中止になるという恐れがあった。おまけに万一にも眼界の狭い偏執的な学者でも出て来て、自分に興味のないような事項の・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・またこのゲンカンは竹林七賢人の一人の名だとの説もある。 ところがちょっと妙なことには、このゲンカンの文字を今のシナ音で読むとジャンシェンとなるのである。またこのコハシあるいはコフジに相当するものと思われる類似の楽器の類似の名前がヨーロッ・・・ 寺田寅彦 「日本楽器の名称」
・・・前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が来てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった。」「夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思いながら、そのものに対する責任は尽くして行くといった・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管を啣えて路傍に蹲踞んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾を音高く地面へ吐く。すると・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・八畳ほどの座敷はすっかり渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥が順序よく引手のカンを并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の簾を動すと、その間から狭い路地を隔てて向側の家の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・サレバ客ノ此楼ニ登ツテ酔ヲ買ハント欲スルモノ、若シ特ニ某隊中ノ阿嬌第何番ノ艶語ヲ聞カンコトヲ冀フヤ、先阿嬌所属ノ一隊ノ部署ヲ窺ヒ而シテ後其ノ席ニ就カザル可カラズ。然ラザレバ徒ニ纏頭ヲ他隊ノ婢ニ投ジテ而モ終宵阿嬌ノ玉顔ヲ拝スルノ機ヲ失スト云。・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫