・・・巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た旗をつけて、景気をつけたものの、客は正直で、同じ二銭五厘で乗る分にはと、やはり速い巡航船の方をえらんだ……とわかった途端に、お前は流しの方へ逆戻った。が、何分取締りがきびしくて・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・彼の郷国も、罪名も、刑期も書いてはなかったが、しかしとにかく十九の年からもう七年もいて、まだいつごろ出られるとも書いてないところから考えても、容易ならぬ犯罪だったことだけは推測される。――とにかく彼は自分の「蠢くもの」を読んでいるのだ。・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・争はまだ永く続きそうでございますかな』と吉次が座興ならぬ口ぶり、軽く受けて続くとも続くともほんとの戦争はこれからなりと起ち上がり『また明日の新聞が楽しみだ、これで敗戦だと張り合いがないけれど我軍の景気がよいのだから同じ待つにも心持ちが違・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・と弁公景気よく言って、土間を探り、下駄を拾って渡した。 そこで文公はやっと宿を得て、二人の足のすそに丸くなった。親父も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。 短夜の明けやす・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるから・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・しかし二人の結合を不可離的に感ぜしめる契機はこの選択になくして、かの運命にあるのだ。 私のこのような信念からは、青年学生への、実際的に有益な、恋愛についての心得を導き出すことは困難である。実際的とか、有益とかいう観念からして、もはや厳し・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ そのためには具体的の共同体というものが、父母から発生し、大家族を通しての、血族的、言的共生を契機とし、共同防敵によって統一され、師長による文化伝統の教育と、共存同胞による衣食の共同自給にまつものである事情、すなわち父母と、師長と、国土・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ その年転じて叡山に遊び、ここを中心として南都、高野、天王寺、園城寺等京畿諸山諸寺を巡って、各宗の奥義を研学すること十余年、つぶさに思索と体験とをつんで知恵のふくらみ、充実するのを待って、三十二歳の三月清澄山に帰った。 かくて智恵と・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・結婚などというものは星の数ほどの相手の中から二人が選び出されて結び合うその契機の最大なものはこの縁であるといってよい。だから仏教には昔から合い難き師に合うとか、享け難き人身を享けてとか、百千万劫難遭遇の法を聴くとかいってこのかりそめならぬ縁・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・子供が食えもしない紙を手にして失望しているのを見ると、与助は自分から景気づけた。「こんな紙やこしどうなりゃ!」「見てみい。きれいじゃろうが。……こゝにこら、お日さんが出てきよって、川の中に鶴が立って居るんじゃ。」彼は絵の説明をした。・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
出典:青空文庫