・・・やがてあちらで藤さんが帯を解く気色がする。章坊は早く小さな鼾になる。自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。「ね、小母さん」とふたたび話しかける。「え?」と、小母さんは閉じていた目を開ける。「あの、いったい藤さんはどうした人・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色が赤、黄、緑、青、鳩羽というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。麓の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・島は、船を迎える気色が無い。ただ黙って見送っている。船もまた、その島に何の挨拶もしようとしない。同じ歩調で、すまして行き過ぎようとしているのだ。島の岬の燈台は、みるみる遠く離れて行く。船は平気で進む。島の陰に廻るのかと思って少し安心していた・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・女中が部屋の南の障子をあけて、私に気色を説明して呉れた。「あれが初島でございます。むこうにかすんで見えるのが房総の山々でございます。あれが伊豆山。あれが魚見崎。あれが真鶴崎。」「あれはなんです。あのけむりの立っている島は。」私は海の・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・これまでした旅行は、夏になってイッシュルなぞへ行っただけである。景色が好いの、空気が新鮮だのと云うのは言いわけで、実は外の楽しみの出来ない土地へ行っただけである。こんな風で休暇は立ってしまった。そして存外物入りは少かった。 夏もいつか過・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 戦場でのすさまじい砲声、修羅の巷、残忍な死骸、そういうものを見てきた私には、ことにそうした静かな自然の景色がしみじみと染み通った。その対照が私に非常に深く人生と自然とを思わせた。 ある日、O君に言った。「弥勒に一度つれて行って・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫