・・・ 黒い外套を来た湯女が、総湯の前で、殺された、刺された風説は、山中、片山津、粟津、大聖寺まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎ねて起き・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・が、私はそれよりも、沖に碇泊した内国通いの郵船がけたたましい汽笛を鳴らして、淡い煙を残しながらだんだん遠ざかって行くのを見やって、ああ、自分もあの船に乗ったら、明後日あたりはもう故郷の土を踏んでいるのだと思うと、意気地なく涙が零れた。海から・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・べつに確めようとする気も起らなかったが、何かけたたましいような、そしてまたもの哀しいようなその歌を聴いていると、やはり十年前のことが想いだされた。それは遠い想いだった。が、現在の自分を振り返ってみても、別に出世双六と騒がれるほどの出世ではな・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・明方物凄い雨風の音のなかにけたたましい鉄工所の非常汽笛が鳴り響いた。そのときの悲壮な気持を僕は今もよく覚えている。家は騒ぎ出した。人が飛んで来た。港の入口の暗礁へ一隻の駆逐艦が打つかって沈んでしまったのだ。鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌ぎ・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ 突然、先生はけたたましい叫び声を上げた。「やあ! 君、山椒魚だ! 山椒魚。たしかに山椒魚だ。生きているじゃないか、君、おそるべきものだねえ。」前世の因縁とでも言うべきか、先生は、その水族館の山椒魚をひとめ見たとたんに、のぼせてしま・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 彼は私の耳を強くつまみあげた。私は怒って、彼のそのいたずらした右手をひっ掻いてやった。それから私たちは顔を見合せて笑った。私は、なにやらくつろいだ気分になっていたのだ。 けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起った。おどろいて振りむくと・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・驢馬の長い耳に日がさして、おりおりけたたましい啼き声が耳を劈く。楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・いつものように夫婦仲よく並んで泳いでいたひとつがいの雄鳥のほうが、実にはなはだ突然にけたたましい羽音を立てて水面を走り出したと思うとやがて水中に全身を没してもぐり込んだ。そうしてまっしぐらに水中をおそらく三メートル以上も突進して行って、静か・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・また掏摸にすられた中ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・明け方近くなっても時々郵便局の馬車がけたたましい鈴の音を立てて三原橋のあたりを通って行った。奥の間の主人主婦の世界は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽の親類とお寺へ年に一度行くくらいの・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
出典:青空文庫