・・・僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 明いていた入口から、コックや女中たちの顔が、かわるがわる覗きこんだ。若い法学士はというと、彼はこの思いがけない最後の――作家なぞという異った社会の悲喜劇? に対してひどく興味を感じたらしく、入口の柱にもたれて皆なの後ろから、金縁の近眼・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・「予を秀才といふはあたらず、よく刻苦すといふはあたれり」といった頼山陽の言は彼のすなおな告白であったに相違ない。 つとめて書を読み、しかもそれが他人の生と労作からの所産であって、自分のそれは別になければならぬことを自覚し、他人の生に・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・一、でき得る限り刻苦勉強すること。これはどんな天才にも必要なことである。努力せぬ者は終にはきっと負ける。初め鈍いように見える者が刻苦して大成した人は多いが、初め才能があってそれを恃んで刻苦しないために駄目になった者も多い・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・ お昼すぎ、飯盒で炊いた飯を食い、コック上りの吉田が豚肉でこしらえてよこしたハムを罐切りナイフで切って食った。浜田は、そのあまりを、新しい手拭いに包んで、××兵にむかって投げてやった。「そら、うめえものをやるぞ!」と、彼は支那語で叫・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・その時、多分いま前を横切ってゆく子供に、奥の方でコックがものを云っているのが聞えた。「オヤ、この子供は今ンちから豆ッて云うと、夢中になるぜ。いやだなア!」 そんなことを云った。 すると、一緒にめしを食っていた女の人が、プッと笑い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 禹に至つては刻苦勉勵、大洪水を治し禹域を定めたるもの、これ地に關する事蹟なり。禹の事業の特性は地に關する點にあり。 これらの點より推さばこの傳説作者は、天地人三才の思想を背景にして、之を創作せるものなるべく、漢人殊に儒教が天子に望・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・されど、之等は要するに皆かれの末技にして、真に欽慕すべきは、かれの天稟の楽才と、刻苦精進して夙く鬱然一家をなし、世の名利をよそにその志す道に悠々自適せし生涯とに他ならぬ。かれの手さぐりにて自記した日記は、それらの事情を、あますところ無く我ら・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・一つコックの工合の悪いのがあって、それから湯が不断に流出している。もったいない、と知らぬおばさんが云う。暖かい湯気が立上がる。しおれた白百合やカーネーションが流しの隅に捨ててある。百合の匂。カーネーションの匂。洗濯する人。お化粧する人。・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・しかしともかくもこういう試みは未来の連句のためにわれわれの努力し刻苦して研究的に遂行してみる価値のある試みである。たとえ現在の微力なわれわれの試みは当然失敗に終わることが明らかであるまでも、われわれはみじめな醜骸をさらして塹壕の埋め草になる・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫