・・・北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。拳の如き瘤のつきたる鉄棒を片手に振り翳して骨も摧けよと打てば馬も倒れ人も倒れて、地を行く雲に血潮を含んで、鳴る風に火花をも見る。人を斬るの戦にあらず、脳を砕き胴を潰して、人という形を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な胸を殴った。「おまい、寝られないのかい? 又早く出かけなけゃならないのにねえ」 おふくろは弱い声で云った。「お母さんも眠れないんですか。わしは今までグッスリ眠ったんですよ。腹の具合は少しはいい・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 善吉の様子に戯言らしいところはなく、眼には涙を一杯もッて、膝をつかんだ拳は顫えている。「善さん、本統なんですか」「私が意気地なしだから……」と、善吉はその上を言い得ないで、頬が顫えて、上唇もなお顫えていた。 冷遇ながら産を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・また宴席、酒酣なるときなどにも、上士が拳を打ち歌舞するは極て稀なれども、下士は各隠し芸なるものを奏して興を助る者多し。これを概するに、上士の風は正雅にして迂闊、下士の風は俚賤にして活溌なる者というべし。その風俗を異にするの証は、言語のなまり・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三拳ついに成らざれば退て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。野袴の法師が旅や春の風陽炎や簣に土をめつる人奈良道や当帰畠の花一木畑・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「今の前の小節から。はいっ。」 みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっ・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・ 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら」 やっと聞える位の声であった。「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った、いやなひと!」 椅子の上から座布団を下し、縁側に並べた。「どんな? 工合」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ あまり怒って言葉の出ない栄蔵は、膝の上で両手を拳にして、まばらな髭のある顔中を真青にして居る。額には、じっとりと油汗がにじんで居る。 夜着の袖の中からお君の啜泣きの声が、外に荒れる風の音に交って淋しく部屋に満ちた。 昨日、栄蔵・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升って、拳が固く握られた。「ふん。そんなら敵討は罷にするのか」 宇平は軽く微笑んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃあり・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫