・・・左の手の拳を開いて見せた。右の手が貨の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。「気張るぞ」と今一人の船頭が言って、左の臂をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指を竪てて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」 こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そして家の背後の空地の隅に蹲って、夜どおし泣いた。 色の蒼ざめた、小さい女房は独り・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・紅の襞は鋭い線を一握の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶を鳴らして辷り出した。彼は枕を攫んで投げつけた。彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 再び勘次は横さまに拳を振った。秋三は飛びかかった。と忽ち二人は襟を握って、無数の釘を打ち込むように打ち合った。ばたりと止めて組み合った。母親達は叫びを上げた。彼女達は、夫々自分の息子を引き放そうとした。が、二人の塊りは無言のまま微かな・・・ 横光利一 「南北」
・・・歯ガミをする。拳に力がはいって来るが、それのやり場がない。後ろを見るとまだ次の電車は見えない。また先の電車を見る。見まもっている内に次の停留場で止まってまた動き出す。やがて坂をおりてだんだん見えなくなる。あれに乗っていればもうあんなに遠く行・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫