・・・の初版が、僅かにただ三部しか売れなかつたといふ歴史は、この書物の出版当時に於て、これを理解し得る人が、全独逸に三人しか居なかつたことを証左して居る。彼の著書の中で、比較的初学者に理解し易いと言はれ、したがつて又ニイチェ哲学の入門書と言はれる・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名なんだが――それは失礼じゃないか、などと云うことはすっかり忘れて歩いていた。 流石は外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんな・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・いだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、却って之を殺戮することによってのみ成り立ち得る・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・私が成功したのは後にも先にもこれが一回きりだ。 釣りあげられた河豚は腹を立てて、まん丸く、フットボールのようにふくらんだ。これを船底にたたきつけると、パチンと腹の皮が破裂するのだが、それも可哀そうなのでほっておいた。ところが、いつまで経・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「なんだか知っているかい。これは青金剛石と云う物だ。世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が立つ。それを盗んだのはおれだ。世界中捜しても知れない。おれが持っている。おれが盗んだのだ。なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精しくは・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・女子結婚の後は実の父母よりも舅姑の方を親愛す可しと言うと雖も、舅姑とは夫の父母にこそあれ我父母に非ず、父母に非ざる者を父母の如くするのみか、父母に対するよりも更らに情を深くしてこれを親愛せよとは、天性に叶わぬことならずや。例えば年若き婦人が・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・女子の父母、我訓なきことを謂ずして舅夫の悪きことのみ思ふは誤なり。是皆女子の親の教なきゆゑなり。 成長して他人の家へ行くものは必ずしも女子に限らず、男子も女子と同様、総領以下の次三男は養子として他家に行くの例なり。人間世界に男女・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
人物の善悪を定めんには我に極美なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・也一 此分配法ニ異議ありとも変更を許さず右之通明治四十二年三月二十二日 露都病院にて長谷川辰之助長谷川静子殿長谷川柳子殿 遺族善後策これは遺言ではなけれど余死したる跡にて家・・・ 二葉亭四迷 「遺言状・遺族善後策」
出典:青空文庫