・・・に対しておくられた室生犀星氏は、自身の如く文学の砦にこもることを得たものはいいが、まだ他人の厄介になって文学修業なんか念願しているような青年共は、この際文学なんかすてて戦線にゆけ、と、自身の永く苦しかったその時代をさながら忘却失念したような・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・ あの茶色の畳の下駄を書生の手でなおされるのかと思うと、心苦しい様だし、又厚いふっくらした絹の座布団を出されても敷く気がしなかった。 カンカン火のある火鉢にも手をかざさず、きちんとして居た栄蔵は、フット思い出した様に、大急ぎでシャツ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・すると、直ちにそれを共産党の蜂起とデマり、鎮圧の名目で軍隊を繰り出し、市街戦で革命的労働者、前衛を虐殺し、それをきっかけに戒厳令をも布く。そのような計画が予定のうちにあるキッカケの為に、赤松は総同盟の労働者を最も値よく売ろうとしている、と云・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・――勿論マーシャの心持全部をそれだけで象徴しているあの、緑なす樫の詩句が、何処か我々に耳遠い「……ありき」と云う調子で第一に暗誦された為、マーシャが変にいやみに、思わせぶりになったと云うことも無くはないが――其那ことでも、慾を云えば、女優の・・・ 宮本百合子 「「三人姉妹」のマーシャ」
・・・ 浅間敷くサタン奴に魅入られた欲心に後押しされて他人のものをことわりなしに我家に持ちかえった事をとがめられて、厳な司法官の宣告書にふるえの止まらぬ体をそのままただ一坪の四方は皆叩いても音の出ぬ石のただ一つ小窓の開いた牢獄につながれた時の・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・蚊の外に小さく燃えているランプの光で、独寝の閨が寂しく見えている。 器械的に手が枕の側を探る。それは時計を捜すのである。逓信省で車掌に買って渡す時計だとかで、頗る大きいニッケル時計なのである。針はいつもの通り、きちんと六時を指している。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・これを聞けば、ほとんど別人の名を聞くが如く、しかもその別人は同世の人のようではなくて、却って隔世の人のようである。明治の時代中ある短日月の間、文章と云えば、作に露伴紅葉四迷篁村緑雨美妙等があって、評に逍遥鴎外があるなどと云ったことがある。こ・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・三郎はそれを蹴倒して右の膝に敷く。とうとう火を安寿の額に十文字に当てる。安寿の悲鳴が一座の沈黙を破って響き渡る。三郎は安寿を衝き放して、膝の下の厨子王を引き起し、その額にも火を十文字に当てる。新たに響く厨子王の泣き声が、ややかすかになった姉・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・若者の方でも女が人がよくて、優しくて、美しいので、お役人の所に連れて行って夫婦にして貰った。 ツァウォツキイはそれからも身持を変えない。ある時はどこかの見せ物小屋の前に立って客を呼んでいることもあるが、またある時は何箇月立っても職業なし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫