・・・今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。」 爺さんは植木屋の頭に使われて、其処此処の庭の手入れをしたり垣根を結えたりするのが仕事なのだ。それでも家には小金の貯えも少しは・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 圭さんと碌さんは手拭をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。 二「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。「何に利くかなあ。・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。 幼い時から、あらゆる人生の惨苦と戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣まで売り尽して、愈々最後に売る・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・切符を買って、入るとそこが広間の待合室で、真中に緑色の縮緬紙の大きな蝶結びをつけた埃っぽい棕梠の鉢植が一つ飾ってあって、壁に沿って椅子が並べてある。 どんなすいた晩でも、そこでは七八人の楽師が待っている人のために音楽を奏していた。或る晩・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・ グランド・ピアノの置いてある、プラカートと棕梠の鉢で飾られた集会の広間がある。奥の空室で年かさのピオニェール少女が二人、色紙を切りぬいてボールへはりつけ、何か飾ものをこしらえていた。 ――モスクワは御承知の住宅難で、多くの子供は学・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・春の頃は空の植木鉢だの培養土だのがしかし呑気に雑然ころがっていた古風な大納屋が、今見れば米俵が軋む程積みあげられた貯蔵所になっていて、そこから若い棕梠の葉を折りしいてトロッコのレールが敷かれている。台の下に四輪車のついたものが精米をやってい・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・ レーニズムの旗の下に五ヵ年計画を四年で!」棕梠の大鉢が舞台の両端に置かれてある。 ――電化による生産手段の発達は現在一日平均七・七一の労働時間を六・八六に短縮するでありましょう。プロレタリアート新文化建設の一進展として、文部省は五ヵ年・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ ガラス張の屋内温室の、棕梠や仙人掌の間に籐椅子がいくつかあり、その一つの上に外国新聞がおきっぱなしになっている。人がいた様子だけあって、そこいらはしんとしている。 大階段の大理石の手すりにもたれて下をのぞいたら、表玄関が閉っていて・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・片手に新聞を拡げたなり持ち、空模様でも見るらしくふらりと棕櫚の鉢植のところへ出て居た背広の男が、我々に近より、極く平静に――抑揚なく挨拶した。「いらっしゃい」 ホールで、我々は「一寸御飯をたべたいのだが」と云った。「どう・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ポーチに、棕梠の植木鉢が並べてある。傍に、拡げたままの新聞を片手に、瘠せ、ひどく平たい顱頂に毛髪を礼儀正しく梳きつけた背広の男が佇んでいる。彼は、自分の玄関に止った二台の車を、あわてさわがず眺めていたが、荷物が下り、つづいて私が足を下すと、・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫