・・・今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・その生涯が満足な幸福な生涯ならば、むろん、長いほどよいのである。かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。 伊能忠敬は、五十歳から当時三十余歳の高橋作・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・るべき病菌が充満して居る、汽車・電車は、毎日のように衝突したり人を轢いたりして居る、米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下して居る、警察・裁判所・監獄は多忙を極めて居る、今日の社会に於ては、若し疾病なく障害なく真に自然の死を遂げ得る人ありとせ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷なのである。 こう思い耽って居ると、誰か表の方・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に人生を想う機縁のない生涯でもない。しかもなおこれらのものが真・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感情に富んでいるばかりで、気楽に休む時間や、面白く暮す時間は少ないのであるが、この生涯にもやはり目的がないことはあるまいと思われるのである。 この・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・私のこれまでの生涯に於て、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たったこの一度だけであった。「おれは、勉強しだいでは、谷崎潤一郎には成れるけれども、井伏鱒二には成れない。」 私は、阿佐ヶ谷のピノチオという支那料理店で・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・「大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害が踏切台となる者であります。伝える所では、ミケランジェロがモオゼの窮屈な姿を考え出したのは、大理石が不足したお蔭だと言います。アイスキュロスは、舞台上で同時に用い得る声の数が限られている事に依て、そこ・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。 七ツか、八ツの頃、五所川原の賑・・・ 太宰治 「五所川原」
・・・多分当人も生涯この事件を唯一の話の種にすることであろう。それをなんだと云うと、この男は世界を一周した。そこで珍らしい人物ばかり来るこの店でさえ、珍らしい人物として扱われるようになったのである。この男がその壮遊をしたのは、富籤に当ったのではな・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫