・・・ ランプがいつか心をすっかり細められて障子には月の光が斜めに青じろく射している。盆の十六日の次の夜なので剣舞の太鼓でも叩いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主人なのかどっちともわからなかった。(踊りはねるも三十がしまいって・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ぼくはいまその電燈を通り越とジョバンニが思いながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。「ザネリ、烏・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・それよりは、その、精神的に眼をつむって観念するのがいいでしょう、わがこの恐れるところの死なるものは、そもそも何であるか、その本質はいかん、生死巌頭に立って、おかしいぞ、はてな、おかしい、はて、これはいかん、あいた、いた、いた、いた、いた、」・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・教会へ行く途中、あっちの小路からも、こっちの広場からも、三人四人ずついろいろな礼装をした人たちに、私たちは会いました。燕尾服もあれば厚い粗羅紗を着た農夫もあり、綬をかけた人もあれば、スラッと瘠せた若い軍医もありました。すべてこれらは、私たち・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・釈迦は出離の道を求めんが為に檀特山と名くる林中に於て六年精進苦行した。一日米の実一粒亜麻の実一粒を食したのである。されども遂にその苦行の無益を悟り山を下りて川に身を洗い村女の捧げたるクリームをとりて食し遂に法悦を得たのである。今日牛乳や鶏卵・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・拘禁生活をさせられていた人々ばかりでなく、どっさりの人は戦地におくられて、通信の自由でなかった家郷の愛するものの生死からひきはなされて、自分たちの生命の明日を知らされなかった。 きょう読みかえしてみると、日本の戦争進行の程度につれて・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・而も、彼には、人間として精進し、十善に達したい意慾が、真心から熱烈にあった。 作品にその二つが調和して現れた場合、ひとは、ムシャ氏の頼もしさとは又違う種類の共鳴、鼓舞、人生のよりよき半面への渇仰を抱かせられたのだ。 彼は、学識と伝統・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・したがって、ジャックその人の生死にかかわらず、人類の経験として、それは社会的に摂取された。 日本の戦時中に育った若い心は強いて無智に置かれた。非現実のヒロイズムで目のくらむような照明を日夜うけつづけて育った。自分としての判断。その人とし・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・忠公は、一太のように三畳にじっとしていないでもよいそこの息子であったから、土間の障子を明けっぱなしで遊んでいた。一太が竹格子から見ていると、忠公も軈て一太を見つける。忠公は腕白者で、いつか、「一ちゃんとこのおっかあ男だぜ、おかしいの! ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・犬はやがてその辺を、さっきあっちから出て来たとおりの人間を意識した態度で少時歩いたが、元のところへ戻って来て再び腰をおろした。 暑い暮れ方の静かな庭の中で、その若くない犬の姿は心を惹きつけるものをもっていた。全身に力闘の疲労のあとが感じ・・・ 宮本百合子 「犬三態」
出典:青空文庫