・・・昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・とすぐ通せん坊をされる、進退これきわまるとは啻に自転車の上のみにてはあらざりけり、と独りで感心をしている、感心したばかりでは埒があかないから、この際唯一の手段として「しかし」をもう一遍繰り返す「しかし……今度の土曜は天気でしょうか」旗幟の鮮・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・物理学というものも、歴史的身体的なる我々の感官の無限なる行為的直観の過程に基くのである。直観的過程において一々の点が始であり終であり、創造的なる所から、無限なる疑問が起るのである。単なる否定から何物も出て来ない。単なる形式論理の立場からは、・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と同じく判然明白に解つてしまふ。カントに宿題は残らない。然るにニイチェはど・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んでおくれ、身体にさえ触らなきゃ。さア私しがお酌をするよ」 吉里はうつむいて、しばらくは何とも言わなかッた。「小万さん、私しゃ忘れやアしないよ」と、吉里はしみじみと言ッた。「平田さん……。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・果して一人の力に叶う事か叶わぬ事か其辺は姑く差置き、兎に角に家を治むる婦人の心掛けとしては甚だ宜し。身体の許す限り勉強す可きなれども、本文中の耳障なるは夫に仕えてと言う其仕の字なり。元来仕えるとは、君臣主従など言う上下の身分を殊にして、下等・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 内閣にしばしば大臣の進退あり、諸省府に時々官員の黜陟あり。いずれも皆、その局に限りてやむをえざるの情実に出でたることならん、珍しからぬことなれば、その得失を評するにも及ばず。余輩がとくにここに論ぜざるべからざるものは、かの改進者流の中・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・然るに、時運の然らしむるところ、人民、字を知るとともに大いに政治の思想を喚起して、世事ようやく繁多なるに際し、政治家の一挙一動のために、併せて天下の学問を左右進退せんとするの勢なきに非ず。実に国のために歎ずるに堪えずとて、福沢先生一篇の論文・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・はなはだしきは官府一吏人の進退を見て、学校の栄枯を卜するにいたることあり。近くその一例をあげていわんに、旧幕府のとき開成所を設けたれども、まったく官府の管轄を蒙り、官の私有に異ならざりしがゆえ、いったん幕府の瓦解にいたり捨ててかえりみる者な・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・りきみは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨を思わず、執念深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥るところ、執念深きに過ぎて進退窮するの愚たるを悟り、興に乗じて深入・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫