・・・一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。「俺の部屋はあすこだ」 堯はそう思いながら自分の部屋に目を注いだ。薄暮に包まれているその姿は、今エーテルのように風景・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・そして私はすたすた出て行った。 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返って見た。途端に罪の無い笑は二人の面に溢れて、そして娘の歩は少し疾くなり、源三の歩は大に遅くなった。で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 初やがすたすたとやってくる。紺の絆天の上に前垂をしめて、丸く脹れている。「お嬢さん」「何?」「いいや、男のお嬢さんじゃわいの」「まあ。今お着換えなさるんだわ」「私がどうした」「冗談は置いて、あなたは蟹を食べなん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「いいものだ。」すたすた行き過ぎようとなさる。私は追いかけて、「先生、花はおきらいですか。」「たいへん好きだ。」 けれども、私は看破している。先生には、みじんも風流心が無いのである。公園を散歩しても、ただすたすた歩いて、梅に・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・そんなにまでされては、さすがに私も、呆れかえって物が言えない気持になり、そうですか、さようなら、と言って、おまわりの呼びとめるのも聞かず、すたすたと川のほうに歩いて行き、どうせもう、いつかは私は追い出すつもりでいたのでしょうし、とても永くは・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・その夜、太郎はふところ手してぶらっと外へ出て、そのまますたすたと御城下町へ急いだ。誰も知らなかった。 直訴は成功した。太郎の運がよかったからである。命をとられなかったばかりかごほうびをさえ貰った。ときの殿様が法律をきれいに忘れていたから・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・家人のすきを覗っては、ひらりと身をひるがえして裏門から脱出する。すたすた二、三丁歩いて、うしろを振り返り、家人が誰もついて来ないという事を見とどけてから、懐中より鳥打帽をひょいと取出して、あみだにかぶるのである。派手な格子縞の鳥打帽であるが・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 今日もそこに来て耳をてたが、電車の来たような気勢もないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲がる角で、ふと栗梅の縮緬の羽織をぞろりと着た恰好の好い庇髪の女の後ろ姿を見た。鶯色のリボン、繻珍の鼻緒、おろし立て・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・と言い捨ててすたすた帰って行く。初めはほんの子供のように思っていたが一夏一夏帰省して来るごとに、どことなくおとなびて来るのが自分の目にもよく見えた。卒業試験の前のある日、灯ともしごろ、復習にも飽きて離れの縁側へ出たら栗の花の香は慣れ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫