・・・また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・いわゆる一ト筋を通し、一ト流れを守って、画なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯の何時頃とか、書なら書で儒者の誰とか、蒔絵なら蒔絵で極古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 牢屋でフォーサイスが敵将につかみかかって従者に打ちのめされる。敵将が「勇気には知恵が伴なわなければだめだよ」といって得意になる。敵将が去って後に仲間が「ばかやろう」とののしるのには答えないで黙って握りこぶしをあけて見せる。つかみかかっ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の臍を撚り、『一代女』には自堕落女のさまざまの暴露があり、『一代男』には美女のあら捜しがある。 このような批判の態度をもって西鶴が当時の武士道の世界を眺めたときに、この特殊な世界が如何に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ 八「唐土にても墨張とて学問にあまり精を入れしゆえにつりし蚊帳が油煙にてまっ黒になりしという故事に引きくらべて文盲儒者の不性に身持ちをして人に誇るものあり。いかに学問するとても顔や手を洗うひまのなき事やはある。」(柳里恭・・・ 寺田寅彦 「人の言葉――自分の言葉」
・・・ 〔梨花は淡白にして柳は深青柳絮飛時花満城 柳絮の飛ぶ時 花 城に満つ惆悵東欄一樹雪 惆悵す 東欄一樹の雪人生看得幾清明 人生 看るを得るは幾清明ぞ〕 何如璋は明治の儒者文人の間には重んぜられた人であったと・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・成人の後は儒者の文と詩とを誦することを娯しみとなした。されば日常の道徳も不知不識の間に儒教に依って指導せられることが少くない。 儒教は政治と道徳とを説くに止って、人間死後のことには言及んでいない。儒教はそれ故宗教の域に到達していないもの・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・究理化学を学び得るも、孝悌忠信の道を知らざれば、世の風俗は次第に悪しくなるべしとて、もっぱら儒者の教を主張して、あるいは小学校の読本に、『論語』、『大学』等の如き経書を用いんとするの説あり。 この説、はなはだ理あり。人としてただ技芸のみ・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・たとえば我が日本にて古来、足利の末葉、戦国の世にいたるまで、文字の教育はまったく仏者の司どるところなりしが、徳川政府の初にあたりて主として林道春を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したり・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
出典:青空文庫