・・・と好奇心を焔やしたものもまた決して少なくないだろう。椿岳は芳崖や雅邦と争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして描き擲った大津絵風の得意の泥画は「俺の画は死ねば値が出る」と生前豪語していた通りに十四、五年来著るしく随喜者を増し、書捨ての断・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・犬伝』を読むを聞いて戯れに二十首を作る橋本蓉塘 金碗孝吉風雲惨澹として旌旗を捲く 仇讎を勦滅するは此時に在り 質を二君に委ぬ原と恥づる所 身を故主に殉ずる豈悲しむを須たん 生前の功は未だ麟閣に上らず 死後の名は先・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・若し、その人を忘れずに、記念せんとならばその人が、生前に為しつゝあった思想や、業に対して、惜しみ、愛護し、伝うべきであると。 まことに、詩人たり、思想家たる人の言葉にふさわしい。 誰か、人生行路の輩でなかろうか。まさにその墓は、一寸・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・「それから山内の森の中へ来ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいていました。夜は更けて人の通行も稀になっていたから四辺は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響してい・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・自分などよりは文学の上でも年齢の上でもかなり先輩だと思っていた春月が三十九歳で、現在の私の年齢より若くて死んでいるのを碑文を見て不思議なような気持で眺め直した。生前の春月を直接知っていたのではない。その詩や、ハイネ、ゲーテの訳詩に感心したの・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロの中山服に残して横たわっていた。それを見ると和田は何故とも知れず、ぞくッとした。 一度退却した馬占山の黒龍江軍は、再び逆襲を試みるために、弾・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・久しく見ざれば停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然たる感いと深く、父上母上の我が思いなしにやいたく老いたまいたる、祖母上のこの四五日前より中風とやらに罹りたまえりとて、身動きも得したまわず病蓐の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・先生の多くの著訳書中、其所謂「生前の遺稿」なる「一年有半」及び「続一年有半」が翼なくして飛んだ外は、殆ど売れたという程の者はない。彼の「一年有半」「続一年有半」すらも、若し死に瀕しての著作でなかったならば、アノ十分の一も売れなかったかも知れ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・美しい少年の生前の面影はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。「あ――一太。」 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹や・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫