・・・のを八つまでは灘へうちこむ五斗兵衛が末胤酔えば三郎づれが鉄砲の音ぐらいにはびくりともせぬ強者そのお相伴の御免蒙りたいは万々なれどどうぞ御近日とありふれたる送り詞を、契約に片務あり果たさざるを得ずと思い出したる俊雄は早や友仙の袖や袂が眼前に隠・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・開眼して見れば、顔を出して来るものは神でも仏でもなくして自己である。だから自己がすなわち神である仏である。 しかしこんなことは畢竟ずるに私の知識の届く限りで造り上げた仮の人生観たるに過ぎない。これがわかったために私の実行的生活が変動する・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・そうすると物を遣った人も声を出して笑うのである。婆あさんは老人が家の前に立ち留まって、どうしようかとためらっているのを見て云った。「這入って行って御覧よ。ここいらには好い人達が住まっているのだ。お前さんにも何かくれるよ。」「いやだ。・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・いつまで立っても珈琲の出しようを覚えはしない。おや、このランプの心の切りようはどうだい」なんぞというのよ。それから歩いているうちに床板の透間から風が吹き込むでしょう。そうすると足がつめたくなるもんだからそういうの。「おう、つめたい。馬鹿めが・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦悶の汗が血のしたたりのように土の上に落ちました。「神様、私の命をおめしになるとも、この子の命だけはお助けください」 といのると、頭の上で羽ばたきの音がします・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・両岸には人家や樹陰の深い堤があるので、川の女神は、女王の玉座から踏み出しては家毎の花園の守神となり、自分のことを忘れて、軽い陽気な足どりで、不断の潤いを、四辺のものに恵むのです。 バニカンタの家は、その川の面を見晴していました。構えのう・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・それは本箱の右の引き出しに隠して在る。逝去二年後に発表のこと、と書き認められた紙片が、その蓄積された作品の上に、きちんと載せられているのである。二年後が、十年後と書き改められたり、二カ月後と書き直されたり、ときには、百年後、となっていたりす・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・踊り屋台、手古舞、山車、花火、三島の花火は昔から伝統のあるものらしく、水花火というものもあって、それは大社の池の真中で仕掛花火を行い、その花火が池面に映り、花火がもくもく池の底から涌いて出るように見える趣向になって居るのだそうであります。凡・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫