・・・ 三月で、近くの地面の底にも、遠くの方に見える護国寺の森の梢にも春が感じられる、そこへ柔かく降り積む白雪で、早春のすがすがしさが冷気となってたちのぼるような景色であった。 藍子は、朝飯をすますと直ぐ、合羽足駄に身をかためて家を出た。・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・主人やサーシャが店の裏の小室にいて、店に番頭が一人女客を対手にしていた時、番頭は赫ら顔のその女客の足にさわって、それを摘むように接吻した。「マア……」溜息をついて「何て人でしょう!」「そ、その……」 そっと腕を掻きながらその光景・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・かの末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟やたかぬ先よりこがれ行らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。 某つらつら先考御当家に奉仕候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙りしは言うも更なり、某一身に取・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・かの末木の香は、「世の中の憂きを身に積む柴舟やたかぬ先よりこがれ行らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。その後肥後守は御年三十一歳にて、慶安二年俄に御逝去遊ばされ候。御臨終の砌、嫡子六丸殿御幼少なれば、大国の領主たらんこ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫