・・・棚曝しになった聖賢の伝記、読み捨てられた物語、獄中の日誌、世に忘れられた詩歌もあれば、酒と女と食物との手引草もある。今日までの代の変遷を見せる一種の展覧会、とでも言ったような具合に、あるいは人間の無益な努力、徒に流した涙、滅びて行く名――そ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・彼は云います、『一般に伝記というものは何でも語っているが、只我々にとって重要なことは除外しているものだ。』ぼくは前の饒舌を読み返して、イヤになる。差し上げまいかとも思ったのですが、一遍書いたものは、もう僕と異ったものですから、虚飾にみちた自・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・おそらくは、この少年も昨夜か、けさ、若くして死んだ大数学者の伝記を走り読みしたのに違いない。そのガロアなる少年天才も、あるいは、素裸で激流を泳ぎまくった事実があるのかも知れない。「ガロアが、四月に、まっぱだかで川を泳いだ、とその本に書い・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て・・・ 太宰治 「古典風」
・・・いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。 ベルンの大学は彼を招かんとして・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 場合によってはかえって先生の味方でなかったあるいは敵であった人々の方面からも隠れた伝記資料を求める事も必要ではないかと思うのである。敵の証言が味方のそれよりもかえって当人の美点を如実に宣明することもしばしばあるのである。 ただいず・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・そうして今までに読んだ物語や伝記の中の色々の類似の場面などが甦って眼前に活動するような気がする。そういう意味でジョルジュ・サンドやデューマやバルザックなどの出て来る社交場の光景なども面白い。たとえその描写がどんなに史実的に間違っていても、そ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・といったような堅い伝記物も中学生の机上に見いだされるものであった。同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部」というような純文芸雑誌が現われて、露伴紅葉等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き、山田美妙のごとき・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ 話は変るが、一九一〇年頃ベルリン近郊の有名な某電機会社を見学に行ったときに同社の専売の電信印字機を見せてもらった。発信機の方はピアノの鍵盤のようなものにアルファベットが書いてあって、それで通信文をたたいて行くと受信機の方ではタイプライ・・・ 寺田寅彦 「変った話」
出典:青空文庫