・・・黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・「チェッ、電気ブランでも飲んで来やがったんだぜ。間抜け奴!」「当り前よ。当り前で飲んでて酔える訳はねえや。強い奴を腹ん中へ入れといて、上下から焙りゃこそ、あの位に酔っ払えるんじゃねえか」「うまくやってやがらあ、奴あ、明日は俺達よ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
一 太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るに今の世の不学の徒は、汽車に乗りて汽の理をしらず、電信を用いて電気の性質を知らず、はなはだしきは自身の何物たるを知らずして、摂生の法を誤る者あり。なおはなはだしきは、医は意なりと公言して、医術は憶測に出ずるものかと誤まり認め、無稽の漢薬・・・ 福沢諭吉 「物理学の要用」
・・・この稿を草する半にして、曙覧翁の令嗣今滋氏特に草廬を敲いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧に供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。竹の里人付記〔『日本』明治三十二年四月二十三日・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・瓦斯燈もあって、電気燈もあって、鉄道馬車の灯は赤と緑とがあって、提灯は両側に千も万もあって、その上から月が照って居るという景色だ。実に奇麗で実に愉快だ。自分はこの時五つか六つの子供に返りたいような心持がした。そして母に手を引かれて歩行いて居・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・文学は到底陳套を脱する能わざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒のうちに逍遙して無碍自在に美趣を求む。羽なくして空に翔るべし、鰭なくして海に潜むべし。音なくして音を聴くべく、色・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「伊佐戸の町の、電気工夫の童あ、山男に手足いしばらえてたふだ。」といつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。 そして、黒い道がにわかに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・三人の伝記をすこしよく調べて見ましょう。 一、赤い手長の蜘蛛 蜘蛛の伝記のわかっているのは、おしまいの一ヶ年間だけです。 蜘蛛は森の入口の楢の木に、どこからかある晩、ふっと風に飛ばされて来てひっかかりました。蜘蛛はひ・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
恋愛は、実に熱烈で霊感的な畏ろしいものです。 人間の棲む到る処に恋愛の事件があり、個人の伝記には必ずその人の恋愛問題が含まれてはいますが、人類全般、個人の全生活を通観すると、それらは、強いが烈しいが、過程的な一つの現象・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
出典:青空文庫