ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・めり、女が媚かしい友染の褄端折で、啣楊枝をした酔払まじりの、浮かれ浮かれた人数が、前後に揃って、この小路をぞろぞろ通るように思われる……まだその上に、小橋を渡る跫音が、左右の土塀へ、そこを蹈むように、とろとろと響いて、しかもそれが手に取るよ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ ややしばらく、魂が遠くなったように、静としていると思うと、襦袢の緋が颯と冴えて、揺れて、靡いて、蝋に紅い影が透って、口惜いか、悲いか、可哀なんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅ぐさ、お前さん、べろべろ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ ――茫然として、銑吉は聞いていた―― 血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸、赤肝、碧胆、五臓は見る見る解き発かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々とした咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨、・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・「なまけもんだ、陽気のよさに、あとはすぐとろとろだ。あの潰屋の陰に寝ころばっておったもんだでの。」 白鷺はやがて羽を開いた。飛ぶと、宙を翔る威力には、とび退る虫が嘴に消えた。雪の蓑毛を爽に、もとの流の上に帰ったのは、あと口に水を含ん・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・日を一杯に吸って、目の前の稲は、とろとろと、垂穂で居眠りをするらしい。 向って、外套の黒い裙と、青い褄で腰を掛けた、むら尾花の連って輝く穂は、キラキラと白銀の波である。 預けた、竜胆の影が紫の灯のように穂をすいて、昼の十日ばかりの月・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・風呂の前の方へきたら釜の火がとろとろと燃えていてようやく背戸の入り口もわかった。戸が細目にあいてるから、省作は御免下さいと言いながら内へはいった。表座敷の方では年寄りたちが三、四人高笑いに話してる。今省作がはいったのを知らない。省作は庭場の・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ いつしか疲れを覚えてとろとろとしたと思うと、さすがに田舎だ、町ながら暁を告る鶏の声がそちこちに聞える。あ鶏が鳴くわいと思ったと思うと、其のままぐっすり寝入って、眼の覚めた時は、九時を過ぎている。朝日が母屋の上からさしていて、雨戸を開け・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋にいれ、亀甲万の濃口醤油をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・博士はマッチの火で、とろとろ辻占の紙を焙り、酔眼をかっと見ひらいて、注視しますと、はじめは、なんだか模様のようで、心もとなく思われましたが、そのうちに、だんだん明確に、古風な字体の、ひら仮名が、ありありと紙に現われました。読んでみます。・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫