・・・うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞く・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂『愛のある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。「ところがその中に私はある官辺の用向き・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・しかし先刻の無礼と申すのは一体何のことなのか、とんとわからぬのでございまする。また何かと尋ねて見ても、数馬は苦笑いを致すよりほかに返事を致さぬのでございまする。わたくしはやむを得ませぬゆえ、無礼をされた覚えもなければ詫びられる覚えもなおさら・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連の間には、夙に通俗小説と云う渾名が出来てい・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・恵印はそう思いますと、可笑しいよりは何となく空恐しい気が先に立って、朝夕叔母の尼の案内がてら、つれ立って奈良の寺々を見物して歩いて居ります間も、とんと検非違使の眼を偸んで、身を隠している罪人のような後めたい思いがして居りました。が、時々往来・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、逆に立てた。二つ、三つ、四つ。―― 多くは子方だったらしい。恐れて、魅せられたのであろう。 長上下は、脇座にとぼんとして、ただ首の横ざまに傾きまさるのみであ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ と唐突に躍り上って、とんと尻餅を支くと、血声を絞って、「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚く。「何だ。」 と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、「なぜ、投げる。なぜ茱萸を投附ける。宮浜。」 と声を揚げた。・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・村長の爺様が、突然七八歳の小児のような奇声を上げて、(やあれ、見やれ、鼠が車を曳――とんとお話さ、話のようでございましてな。」「やあ、しばらく!」 記者が、思わず声を掛けたのはこの時であった―― 肩も胸も寄せながら、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・杖とも柱とも頼みましたものを、とんと途方に暮れております。やっと昨年、真似方の細工場を持ちました。ほんの新店でござります。」「もし、」 と、仕切一つ、薄暗い納戸から、優しい女の声がした。「端本になりましたけれど、五六冊ございまし・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ また疳走った声の下、ちょいと蹲む、と疾い事、筒服の膝をとんと揃えて、横から当って、婦の前垂に附着くや否や、両方の衣兜へ両手を突込んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の髯とともに、砂除けの素通し、ちょんぼり・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫