・・・監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。 監督は一抱えもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気・・・ 有島武郎 「親子」
・・・新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかったことに起因していたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・詩人の自由である。詩人はただ自己の最も便利とする言葉によって歌うべきである。という議論があった。いちおうもっともな議論である。しかし我々が「淋しい」と感ずる時に、「ああ淋しい」と感ずるのであろうか、はたまた「あな淋し」と感ずるであろうか。「・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣ずる人の少きにや、諸国の寺院に、夫人を安置し勧請するものを聞くこと稀なり。 十歳ばかりの頃なりけん、加賀国石川郡、松任の駅より、畦路を半町ばかり小村に入込みたる片辺に、里寺あり、寺号は覚・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・砂山に生え交る、茅、芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代万代の末かけて、巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。 さればこそ、松五郎。我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 省作は例の手段で便所策を弄し、背戸の桑畑へ出てしばらく召集を避けてる。はたして兄がしきりと呼んだけれど、はま公がうまくやってくれたからなお二十分間ほど骨を休めることができた。 朝露しとしとと滴るる桑畑の茂り、次ぎな菜畑、大根畑、新・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・気狂いは違たもんやて、はたから僕は思た。僕は、まだ、戦場におる気がせなんだんや。それが、敵に見られん様に、敵の刈り残した高黍畑の中を這う様にして前進し、一方に小山を楯にした川筋へ出た。川は水がなかったんで、その川床にずらりと並んで敵の眼を暗・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・その不平を吉弥はたびたび僕に漏らすことがあった。もっとも、お君さんをそういう気質に育てあげたのは、もとはと言えば、親たちが悪いのらしい。世間の評判を聴くと、まだ肩あげも取れないうちに、箱根のある旅館の助平おやじから大金を取って、水あげをさせ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありません・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
出典:青空文庫