・・・ Nさんはバットに火をつけた後、去年水泳中に虎魚に刺された東京の株屋の話をした。その株屋は誰が何と言っても、いや、虎魚などの刺す訣はない、確かにあれは海蛇だと強情を張っていたとか言うことだった。「海蛇なんてほんとうにいるの?」 ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・坊ちゃんもバットをおもちゃにしながら、考え深そうに答えました。「こいつも体中まっ黒だから。」 白は急に背中の毛が逆立つように感じました。まっ黒! そんなはずはありません。白はまだ子犬の時から、牛乳のように白かったのですから。しかし今・・・ 芥川竜之介 「白」
良平はある雑誌社に校正の朱筆を握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、翻訳のマルクスを耽読している。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、薄暗いロシアを夢みている。百合の話もそう云う時にふと・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・通りすぎながら、二人が尻眼に容子を窺うと、ただふだんと変っているのは、例の鍵惣が乗って来た車だけで、これは遠くで眺めたのよりもずっと手前、ちょうど左官屋の水口の前に太ゴムの轍を威かつく止めて、バットの吸殻を耳にはさんだ車夫が、もっともそうに・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ と両つ提の――もうこの頃では、山の爺が喫む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附の処を、独鈷のように振りながら、煙管を手弄りつつ、ぶらりと降りたが、股引の足拵えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。「いや・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
正ちゃんは まだ ふとい バットを ふれなかったので、きょねんは おうえんだんちょうに なりました。正ちゃんは はやく せんしゅに なりたかったのです。 きょうは ことしの はつしあいでした。正ちゃんは ほけつで きて いると、あ・・・ 小川未明 「はつゆめ」
・・・私はその女と会わないでいる時はせめて煙草のにおいをなつかしもうと思った。バットやチェリーやエアシップは月並みだと思ったが、しかし、ゲルベゾルテやキャメルやコスモスは高すぎた。私はキングという煙草を買って練習した。一箱十銭だった。 口に煙・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・俺は吸い残りのバットをふかしながら、捕かまるとき持っていた全財産の風呂敷包たった一つをぶら下げて入って行った。煙草も、このたった一本きりで、これから何年もの間モウのめないのだ! 晴れ上がった良い天気だった。 トロッコのレールが縦横に・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・自分の勇気ある態度を、ひそかにほめて、少しうっとりして、それから駅のまえの煙草屋から訪問客用のバットを十個買い求めた。こんな男は、自分をあらわに罵る人に心服し奉仕し、自分を優しくいたわる人には、えらく威張って蹴散らして、そうしてすましている・・・ 太宰治 「花燭」
・・・私は、バット一本、ビイル一滴のめぬからだになってしまって、淋しいどころの話でなかった。地平はお酒を呑んで、泣いていた。私もお酒が呑めたら、泣くにきまっている。そのような、へんな気持で、いまは、地平のことのほかには、何一つ語れず書けぬ状態ゆえ・・・ 太宰治 「喝采」
出典:青空文庫