・・・台詞がかった鼻音声。 酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか?」「研究?」青扇はいたずら児のように、首をすくめ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・おとなたちは、鼻音をたてて眠っているので、この光景を知らない。鼠や青大将が寝床のなかにまではいって行くのであるが、おとなたちは知らない。私は夜、いつも全く眼をさましている。昼間、みんなの見ている前で、少し眠る。 私は誰にも知られ・・・ 太宰治 「玩具」
・・・を一つも送る事が出来ず、すこぶる微温的な返辞ばかり書いて出していた。 からだが丈夫になってから、三田君は、三田君の下宿のちかくの、山岸さんのお宅へ行って、熱心に詩の勉強をはじめた様子であった。山岸さんは、私たちの先輩の篤実な文学者であり・・・ 太宰治 「散華」
・・・そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。 こおろぎやおけらのような虫の食道には横道にその・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
さわやかな若葉時も過ぎて、日増しに黒んで行く青葉のこずえにうっとうしい微温の雨が降るような時候になると、十余年ほど前に東京のSホテルで客死したスカンジナビアの物理学者B教授のことを毎年一度ぐらいはきっと思い出す。しかし、な・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。 お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語いた。「え、善さん」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・後者は、前方への進展の見とおしとその社会的なよりどころを見失った文学の懐古的態度として現れたのであったが、時代の急激なテムポは、微温的な懐古調を、昨今は、花見る人の長刀的こわもてのものにし、古典文学で今日の文学を黙せしめようとするが如き不自・・・ 宮本百合子 「文学上の復古的提唱に対して」
・・・ うすっくらい悪い事の胞子がいっぱいとび散って居る様なまがりっかどの、かどに居る露店のおばあさんのところに先有楽座の美音会の時にあった様なとんだりはねたりや、紙人形やなんか私のすきらしいものばっかり並んで居るのを母は目ざとく見つけて呉れ・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫