・・・九分通り咲きこぼれた大輪の牡丹は、五月の午前十一時過ぎの太陽に暖められ頭痛がするほど強い芳香を四辺に放っている。幸雄は蘂に顔を押し埋めつつその香を吸い込んだ。 ほほけ立った幸雄の黒い後頭部を見ていた石川は、うっかりしていたが不意に不安に・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・p.79 共和主義なんてレッテルとポリテクニックの放校生なんていまいましい汚名を雪ごうと思った。デリケートで気のきいた、むずかしい――そう云った行動ばかりする気でいた。ところが五十四フランのがくぶちと五フランの石刷画ですむんだ。リュ・・・ 宮本百合子 「「緑の騎士」ノート」
・・・決して、たっぷりと開花し、芳香と花粉とを存分空中に振りまいて、実り過ぎて軟くなり、甘美すぎてヴィタミンも失ったその実が墜ちたという工合ではない。謂わば、条件のよくない風土に移植され、これ迄伸び切ったこともない枝々に、辛くも実らしいものをつけ・・・ 宮本百合子 「よもの眺め」
・・・にこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨みをも・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・当年五十五歳になる、大金奉行山本三右衛門と云う老人が、唯一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈の小金奉行が病気引をしたので、寂しい夜寒を一人で凌いだのである。傍には骨の太い、がっしりした行燈がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色の火が・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・職業は奉行所の腰掛茶屋の主人であった。柴田是真は気きがいのある人であった。香以とは極めて親しく、香以の摺物にはこの人の画のあるものが多い。是真の逸事にこう云う事がある。ある時是真は息と多勢の門人とを連れて吉原に往き、俄を見せた。席上には酒肴・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・どうするかというと、願書というものを書いてお奉行様に出すのである。しかしただ殺さないでおいてくださいと言ったって、それではきかれない。おとっさんを助けて、その代わりにわたくしども子供を殺してくださいと言って頼むのである。それをお奉行様がきい・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。 当時遠島を申し渡された罪・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・それを護送してゆく京都町奉行付の同心が悲しい話ばかり聞かせられる。あるときこの舟に載せられた兄弟殺しの科を犯した男が、少しも悲しがっていなかった。その子細を尋ねると、これまで食を得ることに困っていたのに、遠島を言い渡された時、銅銭二百文をも・・・ 森鴎外 「高瀬舟縁起」
出典:青空文庫