・・・ 中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・宇陀の法師に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに春風や麦の中行く水の音 木導師説に云う、景気の句世間容易にするもってのほかのことなり。大事の物なり。連歌に景曲と云いいにしえの宗匠深くつつしみ一代一両句には過ぎず。景気の句初心ま・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ すると狸の子は棒をもってセロの駒の下のところを拍子をとってぽんぽん叩きはじめました。それがなかなかうまいので弾いているうちにゴーシュはこれは面白いぞと思いました。 おしまいまでひいてしまうと狸の子はしばらく首をまげて考えました。・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。 5 水仙月の四日赤い毛布を被ぎ、「カリメラ」の銅鍋や青い焔を考えながら雪の高原を歩いていたこどもと、「雪婆ンゴ」や雪狼、雪童子とのものがたり・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・この身とて、今は法師にて、鳥も魚も襲わねど、昔おもえば身も世もあらぬ。ああ罪業のこのからだ、夜毎夜毎の夢とては、同じく夜叉の業をなす。宿業の恐ろしさ、ただただ呆るるばかりなのじゃ。」 風がザアッとやって来ました。木はみな波のようにゆすれ・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
双子の星 一 天の川の西の岸にすぎなの胞子ほどの小さな二つの星が見えます。あれはチュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さまの住んでいる小さな水精のお宮です。 このすきとおる二つのお宮は、まっすぐに向い合っ・・・ 宮沢賢治 「双子の星」
・・・は、公の一存在としての人民生活、市民生活への奉仕という近代民主主義の要素とはちがったものです。「公僕」という言葉が、民主日本になったからいわれはじめたけれど、その「公」というものが実感の中で「公のものである人民」として感覚されていないことは・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・こんにち、かつての大東亜圏の理論家のあるものは、きわめて悪質な戦争挑発者と転身して、反民主的な権力のために奉仕している。「プロレタリア文学における国際的主題について」は、それらの問題についてある点を語っているが、この評論のなかには、きょ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・ 昼寝して寝がえり打つ拍子にウームと、一太は襖を蹴って、足を突込んだ。母親は一太をぶった。一太が胆をつぶした程、「馬鹿!」と怒鳴って、糊を一銭買わせた。そして、一番新しいつぎを当てた。 一太はそのまだ紙の白いところを眺めたり・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫